アイドルとしてのニッポンの地方都市

中心としての東京とその周縁としての地方都市。こうした二項対立は特に地方都市の側から意識されやすい。「東京は今こんならしいぞ」「東京ではあれが流行りだしたらしい」等々。面積は総国土の200分の1に満たないにもかかわらず、日本の10分の1の人口が集中している東京。その他東京に隣接する各県等の人口をあわせると、日本人の3人に1人は首都圏に住んでいる計算になる。国としての機能は首都圏だけでまかなえ、富の多くも東京で創出される。富の分配効率を考えれば首都圏というミニマルな形態で運営するのが一番良いはずだが、半ばお荷物としてその他の地域がくっついてきてしまう。地方都市のほうでは、「東京ばかりずるい」という考えがある反面、自分たちでなんとかしなければならないという危機感も抱いている。そういった問題の対策の一環として地域としての特色を出すという事があげられるだろう。地域に魅力的な特色があれば、東京への人口流出が防げる上に他の都市(特に東京)からの観光で産業を成り立たせる事ができる。東京とは違う都市を目指して各々の都市は特色を出す事に躍起になっている。

魅せる地方都市とそれに食いつく東京。いささか単純過ぎるかもしれないが、便宜的にこうしたわかりやすい構図を想定してみよう。ここに、イメージを消費する東京とイメージを消費される地方都市という関係を見出す事ができないだろうか。中心は、周縁に期待や幻想を抱く。「ここの町にはこんなものがあるらしい、ここの町はこうに違いない、これがよさそうだから行ってみよう」等々。すると、客を取り込むためにそういったイメージの植え付けを甘受する地方都市や、翻って「あえてふるまうこと」でイメージを人々に植え付ける地方都市の姿が見えてくる。そもそも、日本程度の広さの国土で独特の特色を持った(持っているとされている)都市がこんなにも沢山あるというのはいささか変ではないだろうか。例えばアメリカは日本の数十倍の国土を持つにもかかわらず、特色を主張している都市の数はさして日本と変わらないだろう。いくら、複雑な地形を持ち四季がある日本とはいえ、数マス進むごとにまるで違った色を持つ桃太郎電鉄的な社会は作り出されたフィクションであると考えるのが妥当である。地方都市はあえてキャラクタとしてプロデュースされること、ブランドとして地位を確立する事で生き残りを図っているかのように見える。つまり、地方都市はアイドルなのだ。

近年、日本ではキャラクタ化、プロデュース作業がいかなる場面いかなる産業でも必須事項となった。入学したてのクラスでいかに生き残っていくか、どんぐりの背比べの新卒の中でエントリシートでいかに自分を飾り立てるか、当選したての議員の中でいかに目立って将来への足がかりをつくるか。化粧なしでは生きられない社会である。都市の戦略もその例外ではない。「中心都市」と「地方都市」の関係はそれぞれをそのまま「男」と「女」というタームに置き換える事も可能である。イメージを強要する中心とそれを甘んじて受け入れなければ生き残れない周縁としての存在。無意識にアイドルをイメージとして消費している時はもちろん、それが意図的であっても意図的なイメージの消費が意図しない方向に拡大する事がある。意図しないイメージの消費はポスコロ的歪みの原因となる。

偶像化された存在は現実と期待との齟齬に苦しむということは多々ある。叫び声で演奏する音すら聴こえなくなり嫌気がさしてライブをしなくなったビートルズ、あるいはレジェンドとして持ち上げられすぎて苦悩したカート・コバーン、SPEED等女子音楽アイドルユニットの出現によって「王子」というかつての栄光が表層的なアイコンを汲み取られていたにすぎず誰も自分の音楽なんぞ聴いちゃいないと気付いた小沢健二のように。このままある面では空虚な現状を甘んじて受け入れて生き延びるべきか、次のステップを模索して進んでいくべきか。ビートルズは解散した。カート・コバーンは死んだ。小沢健二は隠居した。さて、我々はどうする?


ハーレム=中高一貫男子校論

東京や神奈川から高校時代の友人が来た。怒濤の二日間であった。さきおととい、スキーによる全身の筋肉痛のためにぼんやりしていたら「明日行くから」というメールがあり、寝て起きたらもう二人が来ていた。

彼らは王将で餃子を食ってからひたすらゲームゲームゲーム。僕がバイトに行ってる間もゲームゲームゲーム。36時間に渡ってゲームゲームゲーム。朝の三時にラスボスの一面前にしてドンキーコングのデータ消滅というオチつき。セーブデータ消えた瞬間の3人の沈黙と落ち着き。結局京都まで来たのに彼らは何もせずに、何かしたかと言ったら「ドンキーコングはなぜ全裸にネクタイという出で立ちなのか、カウンターカルチャーなのか、何に対して反抗しているのか、全裸で」という議論をしたくらいで、さしあたり答えも出さずに帰っていった。

高校時代の友人との会話はただひたすらに「disり」である。けなし文化。人を笑わすために人をけなすし、笑わそうとする発言に笑ったら負け、笑わされないように相手の笑いを潰す潰す。一見すると冷たい土壌から生まれる笑いは永久凍土を突き抜けてきただけあって、温かいエネルギーを持っている。それが楽しい。ヒップでホップな文化である。

思い出話も全般的に「アイツださかったな」みたいな「disり」が基本。次第にdisrespect の対象はテレビの向こう、ゲームの中、店のポスターや街並み、世の中の全てに波及していく。この強烈な「disり」文化はついていけない人には全くついていけないものであると同時に、ハーレム(トルコじゃなくてニューヨークの方のね)かもしくは私立の中高一貫男子校のような場所でしか成立しえないものでもあろう。

ハーレムと中高一貫男子校には通底するものがある。それが今日の結論である。

中高一貫の生徒には少なからず世の中に対する斜に構えた眼差しがあると思う。小学校まではそれなりに勉強ができるだけで、クラスの中でも中心近くにいる事ができた、文化の発生源になる事ができた、文化を決める事が来たが、入試によって選抜された集団のなかでは勉強ができるというだけでは集団の中で頭一つ飛び出す事ができない。かといって、スポーツなどで筋肉自慢しても校内では一番かもしれないが、その辺の高校のやつらには到底かなわない。そこで重要になっていくのが「言葉」と「音楽」である。無形的な方向にむかうのが前者であり、もてあます時間でもって技術の鍛錬という肉体的な修行に向かうのが後者である。どれだけおもしろい事を言うか、どれだけ新規的なことが言えるか、周りのヤツらの目から鱗をはぐような発言ができるか。どれだけうまくギターが弾けるか。ドラムが叩けるか。もともと勉強やお稽古によって手中にあった教養がそのために利用されていく。だから決まって私立の中高一貫では「バンド」を組むのが流行るのだろうし、独自の「言葉」を編み出すための思考が善くも悪くも世の中に対する斜に構えた眼差しにつながってゆくのであろう。

そして、女子というストッパーがいない男子校という環境がもたらす無鉄砲さ、ハメを外さずにはいられない雰囲気が自体を和やかでない方向に追いやってゆく。何に対してもケチを付けて笑って楽しんでやろうという「disり」文化の発生である。disられることに対して免疫のない人間や、disりをdisりでかぶせられない人間、自分の言葉を持たない人間、つまり対象をdisれない人間は次々に脱落してゆく。

それでは、ハーレムを見てみよう。金がないという前提でアメリカンドリームを夢見て横一線になってはじまる競争において頭一つ飛び抜けるためにはやはり道具のいらない「言葉」が一番手っ取り早いということになる。どんな言葉を言うか、どれだけ面白い言葉を言うか、どれだけ新しいことを言うか、それによってどれだけ賛同を得るか。読み書き等の教育がままならない場所では自然と話し言葉が言葉になり、笑いは言葉遊びと相手への「disり」になっていく。マイノリティというルサンチマン(果たして21世紀において黒人が真の意味でマイノリティなのかという事に対しては疑問を投げかけなければならない。感覚と現実のギャップから黒人を取り巻く文化は新たな方向へと進みだしているかもしれない。)は、世の中への斜に構えた眼差しを生み出し、にもかかわらず、「drug girl gun」というキーワードに見られるように、女性を消費や自己顕示の対象、手段とみなす姿勢は、すなわち表現者の側から女性を排除するということであり、黒人コミュニティが父権的社会であるということを如実に表している。暴力や無茶へのストッパーの欠如がここに発生する。差別されなれている彼らは、disられたらdisり返すという基質を十分に備えている。それは、多少攻撃されたくらいでは一切揺るがない強固な優越感、自負心、自尊心を持っているからであろう。(他人にけなされても怒らない人間は、心のどこかで「お前にけなされたぐらいじゃゆらがねーんだよ」という自信を持っているものである。小さな犬がやたら吠えるのに対して大きな犬は肝心な時にしか吠えないように。)こうした黒人文化においては、彼らが持つ言葉とビートが合わさってラップという表現に結実している。

上記のように、同じ条件で競争しなければならないということ、同じようなレベルの教養を持っているという事、集団の誰しもが何かしら世の中に対して優越的自負心を抱いている事は強烈なdisり文化を生み出し、そのような条件や精神性はスラム文化と日本の中高一貫男子校に通底するものである。


twitter のウィジェッドが貼れないぞ。

導入

「オトナ/コドモ」という概念はルソーがエミールにおいてその可能性を提起して以来、特に「あなたはオトナ/コドモのどちらであるか?」という文脈においてたゆまぬ議論の的になっているが、はてこの2極的議論は今までに何を生み出してきたかと考えてみると、せいぜい暇つぶし的レクリエーションであり、議論的独白の場にすぎない。

オトナ/オタク/セイネン/コドモ というタームに関して考えるところがあり、特に巷のオタクのトークについて(20世紀の言葉で表現すると)多少ムカつくところもあり、さらに自省的に考えなければならない事も2、3あり、その前哨戦として、オトナ/コドモ二元論に終止符を打っておかなければならないと思う。

ところで、アウフヘーベン脱構築というのは結局同じことを言っていて、新概念が孕み持つ上昇という希望に力点を置くか、旧概念の破壊という作用に力点を置くかという違いであると、今のところ考えているが、オトナ/コドモ二元論を脱構築アウフヘーベンする存在としてオタク/セイネンをとらえる姿勢がオトナ/コドモ二元論を過去のものにする所行ならば、現代において「オトナ/コドモ」とはどういった意味なのであろうか。オタクでもセイネンでもない我々もしくは、人々は、「オトナ/コドモ」をどういった概念でとらえれば良いのだろうか。

ちょっとお腹いたくなってきた。

例えばレクリエーション的議論に陥った場合「まだまだあたしなんてコドモだから〜」とか「オレはガキだし」とか言っておけば謙遜している事になってコミュニケーションも円滑に進むが、逆に「おめーなんてまだまだコドモだろ」とか言われると「はいはい、コドモですよ」という反感が一種の開き直りとして発露する。

ここからわかる事は、「オトナ」というのは目指すべき物として存在するだけで実際にはたどり着けない、もしくはたどり着いたという事を宣言する事が許されない、まるで桃源郷の仙人のような半透明の概念であるということであり、逆に「コドモ」というのはその状態にあるのが許されない出発点であるとも言える。「コドモ」という確固たる壁を蹴飛ばす推進力によって半透明で神出鬼没の「オトナ」を追い求めるという行為が生活の推進力になっているという事である。特に宗教消滅以後「オタク」出現以前においては。オトナ/コドモにかぎらず 科学/非科学 男性/女性 等においても2点の実虚の落差がエネルギーになっている。ではこの構図はカウンターカルチャー、オタク出現以降は、どうなっていくのであろうか。

なぜ我々は解釈したがるのか、カートゥーン、文字、メロディ、記号-消費教、全能感という言葉を次へのフックとしてここにメモしておく。

赤いゴムボールがはねて、太陽と重なる時

セーラームーンを4話ぐらい見ました。湯船で「ミラクル〜ロ〜マンス」のメロディを思い出して、それ以外の箇所が全然思い出せなかったので、youtube で検索してみてしまいました。そこそこおもしろかったのですが、声優の声が高すぎて続けて見るには4話が限度でした。

幼稚園の頃セーラームーンの人気は絶頂で、当時の幼稚園生達のポップアイコンと言えばセーラームーンオーレンジャードラゴンボールGTスーパーマリオ64ポンキッキーズ、だったように思います。孫悟空やマリオは実際のところ、ブウやクッパパフォーマティブに戦う事でコンスタティブな意味合いではセーラームーンと戦っていたのだろうと思います。(玩具の売り上げとか視聴率とか)

当時、セーラームーンには「おんなのこのせかい」というイメージがあり、「昨日の決めゼリフ最高だったよな」などということを言おうものなら、すぐさま仲間から総スカンを食らうのであろうので、僕は怖くて見ていませんでした。ただ、「おんなのこのせかい」に気に入られた男子は一人だけタキシード仮面としてごっこに参入する事が許されていました。でも当時はあんまりうらやましくおもっていなかったような気がします。

加えて、僕はドラゴンボールも見ていなかったし、ロクヨンも持っていなかったので、オカダ君という友達と二人でスケッチブックに謎の妄想ワールドを日々書き付けて、その中を旅していたように思います。オカダ君は幼稚園児にしては絵がとてもうまく、戦隊ものの絵は家に帰って飾っておきたいなと思うくらいでした。ちなみに、僕はボーズやピエール瀧や白熊くん(小沢健二)が出てくるポンキッキーズを毎朝楽しみに見ていたのですが、ポンキッキーズ派がなかなかいなかったので、ちょっと形見が狭かったのを覚えています。

アニメの主題歌はなぜキャッチーなのかということについて少し考えてみたのですが、結果子供達を反射的に誘導する必要があるからだという結論に至りました。キャッチーな音楽は意味を通り越して気持ちが良いものです。我々が音声を感受する動物である時点で和声に対して一種の麻薬に対するのと同じような弱みを持っています。音楽を聴く事は煙草を吸ったり酒を飲んだりする事と同じことなのです。嗜好は年齢や聴く音楽の変化にあわせて様々に変容し、細分化されていくでしょうが、人間が生まれながらにして持っているメタな音に対する感受性というのは一様なんだろうと思います。

アニメの話にもどりましょう。とりあえず制作者達は、気持ちよい音楽や目立った色彩で動物を操るかのように子供達をテレビの前に座らせなければいけない。言語的に意味を解する能力が未発達な子供達を物語に引きつけるためには、刺激によって引きつけるのが一番有効な手段です。一週間に1度のお祭り騒ぎ、気持ちのよい空間を子供達に提供するために、アニメの主題歌はミサの始まりの賛美歌のような、祭りの始まりを告げるお囃子のような、そんな役割を果たしているのです。賛美歌やお囃子に共通するのはやはりキャッチーさです。老人や子供にわかりやすくて気持ちのよい刺激を提供するためにかっちりとした和声の教会音楽があり、楽しげなビートを持つ祭りのための音楽があるのです。

元来子供向けだったそのような単純で気持ちのよい仕掛けから抜け出せなくなる大人がだんだんと増えているような気がします。「オタク」ってやつです。「抜け出せない」という否定的な言葉を使いましたが、それは忌避すべき事ではないように思います。むしろカッコつけて、コーヒーを飲んだりウィスキーを飲んだりする必要がなくなった、単純な仕掛けから抜け出す必要がなくなったのです。林檎ジュースでいいちょっとお酒飲むにしてもチューハイくらいで良いやという土壌になりました。

なぜそうなったか。宗教の瓦解が大きいと思います。その虚構性を指摘される事によって、虚構を水面下で孕み持つことを支えとしていた宗教が意味を失いました。それ以後、物語、動画、音楽(フィクションを求める心、視覚的欲求、聴覚的欲求)の三者を宗教の代わりにを絡めとった究極の形がアニメーションだったのだろうと思います。ぼっとしてるだけで気持ちよくなれる上に周りの人々と話を共有できるきわめて受動的で楽しいシステムの基本形としての宗教。神話があり、偶像があり、宗教音楽があり、祭りがありました。同様にお話があり、キャラクターがいて、音楽があり、コミケやライブイベント等ファン同士の交流があります。アニメーションは現代のメタ宗教として君臨しているのだろうと思います。

同様の事は映画やMTV、アイドル産業に言える事ですが、なぜアニメがここまで一斉を風靡しているのかということは、もう少し考える余地がありそうです。

雨が降っているけれども、外よりも部屋の中の方が寒いです。3月の水です。



赤いゴムボール

魂の幸福な時

回転板のヴァイナルの上を落ちないように逆向きに駆けて、芽が息吹くのを待とう。たまに迫ってくる針のアームは赤いゴムボールみたいにぴょいと飛び越してね。

そりゃ回転木馬ぐらいで良いとも思うよ。

何度も何度も言うけれど、何度も何度も聴いても良い。たいして音楽を聴いていなかった中学時代からポールサイモンは好きだった。正確にはポールサイモンがここまで偉大な音楽家だという事を知ったのは小沢健二を聴き始めてからで、当時聴いていたのは「サイモンとガーファンクル」だけれども。ソロ活動以後のポールサイモンはよく「アルバム『グレイスランド』のおいてアフロなビートとアフリカ特有の声楽を彼の美しいメロディライティングとうまく融合させる事によって成功をおさめた」とか言われるけれど、実際デュオ時代から彼の中には独特のリズム感覚と和声があったのだろうと思う。例えば、「ボクサー」という曲を聴いていみると、アコースティックギターアルペジオリズムセクションの代わりに使っているが、彼のシンコペーションするアルペジオにはすごく独特なグルーヴ感がある。バンドサウンドによらない作曲によって「8ビートロック」的なしがらみから、ビートの感じ方から解放されていたとも言えるかもしれない。「ライラライ」のところでフェードインしてくるスネアとハイハットが余計に響く。ハーモニーもムーンムーンアワアワというアカペラから入る「diamonds on the soles of her shoes」のようなアフリカの声楽を取り入れた曲となんら断絶を感じない。まるで次の日に作ったようだ。

「50 ways to leave your lover」のスティーブガットのプレイが好きだ。「ドゥルタツ ツタツタ トン」というウラを意識させながらもエッジを利かせすぎないリズムから入り、サビでいきなり澄まし顔の8ビートに戻るという、ピエロがふざけているみたいな構成。けれどもサビの最中にもさっきのリズムが聴こえていて、どこへ行ったのかと思ったら左チャンネルから流れてくるカッティングのギターが「ドゥルタツ ツタツタ トン」を引き継いでいるのだ。こうした「ドゥルタツ ツタツタ トン」のキャッチボールによって全く異なるセクションに一貫性が備わったこの曲は、ポールサイモンのささやくような歌い方もあいまってサンプリング時代のラップを先取りしているかのようにも聴こえる。(加えてサビのメロディの方にインパクトがないというのもこの曲のポイント)


ゆったりとしつつも聴く者をインスパイアするような複雑さを孕み持つポールサイモンの曲には「回転木馬のような高速回転」という比喩がぴったりかもしれない。



最後にコシシケレリ・アフリカ。大きな栗の木の下で。

おたく→オタクへの移行/郵便的誤配を待っている。

無知は恥である、というテーゼを盲目に信じきってここまで邁進してきた感があるが、無知の恥は無知の知で克服できる!ということに薄々気付き始め、知識とセンスに偏重しすぎる姿勢はいやらしいスノッブを生むだけであり、現代の社会にはそぐわない姿勢であるという事が決定的にわかった。無知は恥ではない、と言い切るところまではいっていないが、知識やセンスはアドバンテージにはならないのである。江口寿史を知らない人がオタクを自称しているという現象に十月ごろ直面した時、気付くべきだった。(別に江口寿史がオタクのイコンというわけでは一切ないが) 知識やセンス偏重型の姿勢を80年代〜90年代型の「おたく」という言葉に集約するとすれば、(コジェーヴが定義するところの日本的スノビズム)90年代以降の「オタク」とは環境順応型の姿勢なのだ。この話は、相対化されつづける(脱構築が繰り返される)世界に収拾をつけるためには、あらゆる分野においてどこにルール、フィールドを設定すれば良いのかというアーキテクチャ論つながることになる。つまり、量的な多寡はフィールドの条件に必要がないということである。それでは、今取るべき態度はいったいなんであろう。制度設計への眼差しということになるのだろうか。 確かに現在の資本主義的制度(それは、資本に関するものにかぎらず、様々なところに見受けられる、例えば入学試験という制度等)は数量的多寡を基準としたものであり、多寡を条件にしたくない、無知が恥ではないと見なす環境順応型人間の姿勢とは多くの部分で齟齬を起こす。若者の消費活動が減退しているという分析も随所で出ているし。しかし、そういったアーキテクチャの革新の困難さを証明しているのが、学会における現代思想の位置づけであるし、日本の現代思想陣がこれまで指摘し続けてきた日本の「空無」つまり、悪い場所としてのニッポンではなかったか。このへんで行き詰まる。

ここで、ぐっと問題を卑近的な事象(個)というものに引きつけてみると、個人はどうしたいのだろうか。個人は何を望んでいるのだろか。特に「私」という個人は何を望んでいるのか。という疑問が出てくる。コンスタティブな書きぶり、コンスタティブさを装う(パフォーマティブな)この「私」はいったい何を望んでいるのだろうか。他者との隔絶だろうか。確かにあんまり人に見つかりたくないとは思う。知り合いに偶然見つかるということを避けたいからあまり外に出たくない。一方で、恣意的に他者にアクセスして意見を聞いたり、関係のない話をしたいとも思う。ということは、他者の説得であろうか、他者の説得による「私」自身の精錬であろうか、よしんば他者の説得から生じる優越感であろうか。どれも舌足らずな気がする。


あらゆる可能性の海の中でもがきつづけるこの「私」は、こうだったかもしれないし、こうなるかもしれないという、可能性の中で、確固たる現在の自分を正当化してくれる郵便的誤配を待っているのかもしれない。まるで、気分にあった曲が始まるまで半永久的にiPodをシャッフルし続けるように。ここで、iPodの中身の曲数だとか、何が入っているだとか、そんなことは問題にならない。ただ、自分の知識の中で、もしくは新しく知識を取り込んでいく中で、都合のいい郵便的誤配が起こることをずっと心待ちにしてるだけなのだ。それこそがまさに、環境順応型の(コジェーヴの言葉で言えば「動物化」した)オタクのことではないか。つまり僕は無意識のうちに、動物化していたのだ。表層ではそれをバカにしていたくせに。完全に根幹が崩れた。けれども、簡単な事だ。環境に順応していれば良いのだから。順応したい環境になるように制度設計していけばよいのだから。そんなことを、買いたてのビールを持って家に帰った瞬間、思った。曇りだった。

グッドスリープインバケーション

へルタースケルター/岡崎京子 を読んでいて、消費と欲望についての考えがある面では多少まとまった気がしたが、資本論のレポートが振り出しにもどった。バケーションに向けての道のりはまだ長い。