ハーレム=中高一貫男子校論

東京や神奈川から高校時代の友人が来た。怒濤の二日間であった。さきおととい、スキーによる全身の筋肉痛のためにぼんやりしていたら「明日行くから」というメールがあり、寝て起きたらもう二人が来ていた。

彼らは王将で餃子を食ってからひたすらゲームゲームゲーム。僕がバイトに行ってる間もゲームゲームゲーム。36時間に渡ってゲームゲームゲーム。朝の三時にラスボスの一面前にしてドンキーコングのデータ消滅というオチつき。セーブデータ消えた瞬間の3人の沈黙と落ち着き。結局京都まで来たのに彼らは何もせずに、何かしたかと言ったら「ドンキーコングはなぜ全裸にネクタイという出で立ちなのか、カウンターカルチャーなのか、何に対して反抗しているのか、全裸で」という議論をしたくらいで、さしあたり答えも出さずに帰っていった。

高校時代の友人との会話はただひたすらに「disり」である。けなし文化。人を笑わすために人をけなすし、笑わそうとする発言に笑ったら負け、笑わされないように相手の笑いを潰す潰す。一見すると冷たい土壌から生まれる笑いは永久凍土を突き抜けてきただけあって、温かいエネルギーを持っている。それが楽しい。ヒップでホップな文化である。

思い出話も全般的に「アイツださかったな」みたいな「disり」が基本。次第にdisrespect の対象はテレビの向こう、ゲームの中、店のポスターや街並み、世の中の全てに波及していく。この強烈な「disり」文化はついていけない人には全くついていけないものであると同時に、ハーレム(トルコじゃなくてニューヨークの方のね)かもしくは私立の中高一貫男子校のような場所でしか成立しえないものでもあろう。

ハーレムと中高一貫男子校には通底するものがある。それが今日の結論である。

中高一貫の生徒には少なからず世の中に対する斜に構えた眼差しがあると思う。小学校まではそれなりに勉強ができるだけで、クラスの中でも中心近くにいる事ができた、文化の発生源になる事ができた、文化を決める事が来たが、入試によって選抜された集団のなかでは勉強ができるというだけでは集団の中で頭一つ飛び出す事ができない。かといって、スポーツなどで筋肉自慢しても校内では一番かもしれないが、その辺の高校のやつらには到底かなわない。そこで重要になっていくのが「言葉」と「音楽」である。無形的な方向にむかうのが前者であり、もてあます時間でもって技術の鍛錬という肉体的な修行に向かうのが後者である。どれだけおもしろい事を言うか、どれだけ新規的なことが言えるか、周りのヤツらの目から鱗をはぐような発言ができるか。どれだけうまくギターが弾けるか。ドラムが叩けるか。もともと勉強やお稽古によって手中にあった教養がそのために利用されていく。だから決まって私立の中高一貫では「バンド」を組むのが流行るのだろうし、独自の「言葉」を編み出すための思考が善くも悪くも世の中に対する斜に構えた眼差しにつながってゆくのであろう。

そして、女子というストッパーがいない男子校という環境がもたらす無鉄砲さ、ハメを外さずにはいられない雰囲気が自体を和やかでない方向に追いやってゆく。何に対してもケチを付けて笑って楽しんでやろうという「disり」文化の発生である。disられることに対して免疫のない人間や、disりをdisりでかぶせられない人間、自分の言葉を持たない人間、つまり対象をdisれない人間は次々に脱落してゆく。

それでは、ハーレムを見てみよう。金がないという前提でアメリカンドリームを夢見て横一線になってはじまる競争において頭一つ飛び抜けるためにはやはり道具のいらない「言葉」が一番手っ取り早いということになる。どんな言葉を言うか、どれだけ面白い言葉を言うか、どれだけ新しいことを言うか、それによってどれだけ賛同を得るか。読み書き等の教育がままならない場所では自然と話し言葉が言葉になり、笑いは言葉遊びと相手への「disり」になっていく。マイノリティというルサンチマン(果たして21世紀において黒人が真の意味でマイノリティなのかという事に対しては疑問を投げかけなければならない。感覚と現実のギャップから黒人を取り巻く文化は新たな方向へと進みだしているかもしれない。)は、世の中への斜に構えた眼差しを生み出し、にもかかわらず、「drug girl gun」というキーワードに見られるように、女性を消費や自己顕示の対象、手段とみなす姿勢は、すなわち表現者の側から女性を排除するということであり、黒人コミュニティが父権的社会であるということを如実に表している。暴力や無茶へのストッパーの欠如がここに発生する。差別されなれている彼らは、disられたらdisり返すという基質を十分に備えている。それは、多少攻撃されたくらいでは一切揺るがない強固な優越感、自負心、自尊心を持っているからであろう。(他人にけなされても怒らない人間は、心のどこかで「お前にけなされたぐらいじゃゆらがねーんだよ」という自信を持っているものである。小さな犬がやたら吠えるのに対して大きな犬は肝心な時にしか吠えないように。)こうした黒人文化においては、彼らが持つ言葉とビートが合わさってラップという表現に結実している。

上記のように、同じ条件で競争しなければならないということ、同じようなレベルの教養を持っているという事、集団の誰しもが何かしら世の中に対して優越的自負心を抱いている事は強烈なdisり文化を生み出し、そのような条件や精神性はスラム文化と日本の中高一貫男子校に通底するものである。


twitter のウィジェッドが貼れないぞ。