導入

「オトナ/コドモ」という概念はルソーがエミールにおいてその可能性を提起して以来、特に「あなたはオトナ/コドモのどちらであるか?」という文脈においてたゆまぬ議論の的になっているが、はてこの2極的議論は今までに何を生み出してきたかと考えてみると、せいぜい暇つぶし的レクリエーションであり、議論的独白の場にすぎない。

オトナ/オタク/セイネン/コドモ というタームに関して考えるところがあり、特に巷のオタクのトークについて(20世紀の言葉で表現すると)多少ムカつくところもあり、さらに自省的に考えなければならない事も2、3あり、その前哨戦として、オトナ/コドモ二元論に終止符を打っておかなければならないと思う。

ところで、アウフヘーベン脱構築というのは結局同じことを言っていて、新概念が孕み持つ上昇という希望に力点を置くか、旧概念の破壊という作用に力点を置くかという違いであると、今のところ考えているが、オトナ/コドモ二元論を脱構築アウフヘーベンする存在としてオタク/セイネンをとらえる姿勢がオトナ/コドモ二元論を過去のものにする所行ならば、現代において「オトナ/コドモ」とはどういった意味なのであろうか。オタクでもセイネンでもない我々もしくは、人々は、「オトナ/コドモ」をどういった概念でとらえれば良いのだろうか。

ちょっとお腹いたくなってきた。

例えばレクリエーション的議論に陥った場合「まだまだあたしなんてコドモだから〜」とか「オレはガキだし」とか言っておけば謙遜している事になってコミュニケーションも円滑に進むが、逆に「おめーなんてまだまだコドモだろ」とか言われると「はいはい、コドモですよ」という反感が一種の開き直りとして発露する。

ここからわかる事は、「オトナ」というのは目指すべき物として存在するだけで実際にはたどり着けない、もしくはたどり着いたという事を宣言する事が許されない、まるで桃源郷の仙人のような半透明の概念であるということであり、逆に「コドモ」というのはその状態にあるのが許されない出発点であるとも言える。「コドモ」という確固たる壁を蹴飛ばす推進力によって半透明で神出鬼没の「オトナ」を追い求めるという行為が生活の推進力になっているという事である。特に宗教消滅以後「オタク」出現以前においては。オトナ/コドモにかぎらず 科学/非科学 男性/女性 等においても2点の実虚の落差がエネルギーになっている。ではこの構図はカウンターカルチャー、オタク出現以降は、どうなっていくのであろうか。

なぜ我々は解釈したがるのか、カートゥーン、文字、メロディ、記号-消費教、全能感という言葉を次へのフックとしてここにメモしておく。