横光利一 『機械』 を殺しの告解として読む 

機械・春は馬車に乗って (新潮文庫)

機械・春は馬車に乗って (新潮文庫)

横光利一『機械』を以下の観点から、解題していこうと思う。
1、内発的な感情が欠如する「私」
2、信用できない記憶と視点を持つ語り手としての「私」

1.「私」は怒らない。そもそも、行きずりで知り合った人に紹介された職場で働き始めてしまうフットワークの軽さが普通ではないが、それ以上に軽部との喧嘩の際などに怒るということをしない。「面白み」、「尊敬」や「親しみ」を感じるという記述はでてくるものの、怒りをあらわにするようなことはない。また、「親しみ」や「尊敬」は工場の主人や屋敷が持つ魅力によって引き出されたものである。怒るべきと思われる場面では、自らの相手の行動や言葉に対して自らのとるべき行動を細かく説明し、それが心理描写の代わりとなっている。このことは、心情というよりは現状の論理的解釈というように思われる。このことは本作品の最大の特徴であると思われるが、「機械」という題名にどう関係してくるのだろうか。ちなみに、作中に出てくる町工場は機械を作る町工場ではないし、薬品を用いる工場であり、大規模な機械を使用しているわけでもない。
一つには、心理状態というのは、人間関係によって論理的に決定されるものであり、内なるものではなく、外的な刺激によって発生するものだと仮定してみる実験ととらえることができるのではないだろうか。人間は外からの刺激で何か反応を示すブラックボックスのような存在だとすれば、すなわちそれは「機械」である。また、「機械」である人間をさらにおおきな構成をなす存在の一部品とみなすならば、社会こそが、部品と部品が組み合わさってできる大きな「機械」ではないだろうか、という仮説こそがこの小説の実験性であろう。

それからの私は化合物と元素の有機関係を験べることにますます興味を向けていったのだが、これは興味を持てば持つほど今まで知らなかった無機物内の微妙な有機的運動の急所を読み取ることが出来てきて、いかなる小さなことにも機械のような法則が係数となって実体を計っていることに気づきだした私の唯心的な眼醒めの第一歩となってきた。

中央公論社 日本の文学37巻 『横光利一』昭和41年 313頁より

この部分はこうした機械と心の関係に対する「私」の考えを端的に表していると思われる。では、「唯心的」とはどういった内容を指すと考えられるだろうか。
 
2.この小説は「私」が経験したことや考えたことを主観的に述べた文章によってのみ構成されている。実際この工場で何が行われていたかはよくわからない仕組みになっていることが特徴としてあげられるだろう。たとえば「私」が実際に軽部からいやがらせをうけていたかどうかは、軽部の視点(もしくは神の視点)からの著述がなければわからない。私の思い込みかもしれない。また、「私」は夜中、屋敷が暗室から出て、妻の寝室に入り込むのを目撃したが、実際妻の寝室に入り込んだのは主人であった。しかし、主人は暗室から出てきた事実はないと言う。極め付けは「私」の記憶のあいまいさによって混乱のうちに終わる結末である。動機や物理的な可能性から考えれば「私」にも殺人の嫌疑がかけられて当然であり、しまいには自分自身が何をしたのかわからなくなってしまう。

だがこの私ひとりにとって明瞭なこともどこまでが現実として明瞭なことなのかどこでどうして計ることが出来るのであろう。それにもかかわらず私たちの間には一切が明瞭にわかっているかのごとき見えざる機械が絶えず私たちを計っていてその計ったままに私たちを押し進めてくれているのである。

同上書 324頁より

 そこで、以下のような仮説を立ててみた。実際のところ、「私」は屋敷を殺している。軽部が犯人だとは思わないと断言しているにもかかわらず、その理由が自身にも殺す動機と手段があったからだという消極的なものだというのがそう推測できる大きな理由である。「私」は読者に自分が屋敷を殺したことを隠しており、その隠ぺいと弁明がまじりあった告解としてこの小説があるのではないだろうか。告解であることを意識すると、「私」は小説の結末の時点に立って冒頭から最後まで回想するような時制で語っているにも読め、軽部に無抵抗だったという話や、軽部と屋敷に殴られたときの心情の説明などは言い訳めいたものを感じることもできるだろう。?でのべたような、内的な感情の欠如も、「他者に〜されたのでいろいろと逡巡したうえで〜した」というような弁明のための表現として読めてしまう。それゆえに、「私」が世の中を支配する機械的な作用を信憑していることから、自分を追い詰める正義の強迫観念として機械の先端がにじりよってくるのを感じているのではないだろうか。そう意識するだけで、あれほど「論理的」だと思われていた「私」が突如として何かを隠ぺいしようとしている愚かな人物に感じられはしないだろうか。

殺しの告解としては隠ぺいの意図が入り込みすぎていていささか中途半端なものに思われるが、こう読むことによって、「私がやりました」とは素直に認めきれない人間臭さが機械的な思考の網の目から遊離してくる点が非常におもしろくなるのではないかと思う。