コーマック・マッカーシー 『ザ・ロード』

ザ・ロード (ハヤカワepi文庫)

ザ・ロード (ハヤカワepi文庫)

最近はアメリカの小説家の作品か、アメリカを舞台にした作品ばかり読んでしまう。その場合のアメリカとはアメリカ合衆国であり、南北アメリカ大陸でもある。この小説をよんでやはり僕はアメリカを舞台に語られる物語を読み続けていきたいと感じた。明治維新後の重層的な連続性を失った平面的な日本の歴史は、言い換えるならば稲の穂にトマトを指し木したような不連続性をはらむ歴史は、ヨーロッパというよりは、アメリカのそれと非常によく似通っている。そのために、近代以降の国民国家というパラダイムの中で日本にとって必要だと思われる問題提起はやはりアメリカ的なのである。不連続な歴史の先輩であるからだ。単純に、読んでいて無国籍な感じがするという理由もあるかもしれないが。

さて、本作品はそうした歴史を完全に失った世界を仮定し、荒廃したアメリカ大陸(と思われる場所)を旅する親子が描かれている。気温が下がり、植物が育たなくなり、食糧がなく、数少ない生き残った人々は飢え、もしくは人を食べたいという誘惑と戦って生きている世界である。人に見つかれば殺されて食われるという危険性から、父子は人目を忍ぶことと食糧を収集することのみを目標に南へと旅してゆく。父子の信条は人を食わないことであり、彼らはそれを「善い者」という言葉で表現する。しかし、彼らの食糧はすべて廃墟となった家々に残っているものを拝借することによって賄われており、すなわちそれは死者からの略奪を意味する。「善い者」と「悪い者」の間に何の違いがあるのだろうか。父子は一見生きる意味を見出せない世界において、「人を食わない」というただ一つのルールを課している。ルールは道(それはタオであり、ロードでもある)となり、荒野をさまようだけの人生に一筋の道しるべと意味を与えているのだ。

本作品では、最後まで世界が荒廃した経緯や、人口が激減し、人が人を食うような(女子供は家畜同然に扱われる)世界へと突入した理由は明示されない。父や子に名前はついておらず、おとぎ話のような普遍的な物語としての性格が強い。それゆえ、我々の今の状況では、放射能によって汚染された後の世界の物語としても読めてしまう。荒廃した世界で我々は何を思いどう行動するのか。淡々と語られる描写が、それは父子の行動の描写でもあり、世界の情景の描写でもあるのだが、だんだんと精度を増して的を絞ってくる矢のように我々ににじり寄る。「フクシマ」について少しでも何か考えたことがある者ならばだれしもが何か思うところがあるだろう。解説で小池昌代という人が、荒廃した世界では人びとは表現する手段としての言葉を失う、と書いていたが、僕は「死の町」発言で大臣を辞任させた我々は今、比喩を比喩としてとらえられない段階にあり、まさしく言葉を失った状態にあるのではないかと考えていたため、このタイミングでこの作品を読んだことに一種の恐怖すら感じた。

母が2ちゃんねるをチェックしているらしいとうことを最近知った。実家のマンションのスレなるものをちゃっかし見つけてしまったらしい。夕食後、出し忘れたぬかみそのカブを刻みながら「このマンション、30代のお医者さんだとかIT関係の人が多いみたいなのよ、やっぱりうちみたいな50代夫婦は浮いちゃうわよね」などと言っていた。父は隣の部屋で学生時代に録音したオーネットコールマンのカセットテープを聴きながら眠りに落ちようとしている。反対側の部屋では妹が高校生活最後の定期テストにむけて徹夜の態勢を整えていた。僕はといえば、夜の散歩からの帰り道、マンションのロビーで腕を組みあう30代のお医者だかIT関係だかの夫婦を目撃し、ここ1週間東京の実家で経験した地震の数を数えていた。はたして、世界は荒廃へと(エントロピーの増大とか言ったりもする)向かっているのだろうか。

小説の話に戻ろう。現代アメリカ小説界の巨匠ともいわれるコーマック・マッカーシーの作品を読みとおしたのは今回で初めてだったのだが、もう何作品かチェックしておきたいと思う。巨匠といえば、ティムオブライエンの小説にトーマス・ピンチョンを名乗って若い女性と結婚にこぎつけて失敗する富豪の話があったが、むろん日本では小説家など、どんなに有名な人物とて名乗ったところで見向きもされないだろうから(水島ヒロや石田依良などは除く・・・とすると作品の質と名声は反比例するということだろうか)、小説家が職業として一定の地位を得ている土壌に日本との違いを大きく感じる。最後に、父が子に偶然見つけた世界最後のコーラを飲ませる描写がひどくせつなく、最後に出てくる川鱒の背中のきらめきの描写までが、炭酸が舌の上ではじけているかのような軽い痛みに満ちていたことを付しておきたい。