おたく→オタクへの移行/郵便的誤配を待っている。

無知は恥である、というテーゼを盲目に信じきってここまで邁進してきた感があるが、無知の恥は無知の知で克服できる!ということに薄々気付き始め、知識とセンスに偏重しすぎる姿勢はいやらしいスノッブを生むだけであり、現代の社会にはそぐわない姿勢であるという事が決定的にわかった。無知は恥ではない、と言い切るところまではいっていないが、知識やセンスはアドバンテージにはならないのである。江口寿史を知らない人がオタクを自称しているという現象に十月ごろ直面した時、気付くべきだった。(別に江口寿史がオタクのイコンというわけでは一切ないが) 知識やセンス偏重型の姿勢を80年代〜90年代型の「おたく」という言葉に集約するとすれば、(コジェーヴが定義するところの日本的スノビズム)90年代以降の「オタク」とは環境順応型の姿勢なのだ。この話は、相対化されつづける(脱構築が繰り返される)世界に収拾をつけるためには、あらゆる分野においてどこにルール、フィールドを設定すれば良いのかというアーキテクチャ論つながることになる。つまり、量的な多寡はフィールドの条件に必要がないということである。それでは、今取るべき態度はいったいなんであろう。制度設計への眼差しということになるのだろうか。 確かに現在の資本主義的制度(それは、資本に関するものにかぎらず、様々なところに見受けられる、例えば入学試験という制度等)は数量的多寡を基準としたものであり、多寡を条件にしたくない、無知が恥ではないと見なす環境順応型人間の姿勢とは多くの部分で齟齬を起こす。若者の消費活動が減退しているという分析も随所で出ているし。しかし、そういったアーキテクチャの革新の困難さを証明しているのが、学会における現代思想の位置づけであるし、日本の現代思想陣がこれまで指摘し続けてきた日本の「空無」つまり、悪い場所としてのニッポンではなかったか。このへんで行き詰まる。

ここで、ぐっと問題を卑近的な事象(個)というものに引きつけてみると、個人はどうしたいのだろうか。個人は何を望んでいるのだろか。特に「私」という個人は何を望んでいるのか。という疑問が出てくる。コンスタティブな書きぶり、コンスタティブさを装う(パフォーマティブな)この「私」はいったい何を望んでいるのだろうか。他者との隔絶だろうか。確かにあんまり人に見つかりたくないとは思う。知り合いに偶然見つかるということを避けたいからあまり外に出たくない。一方で、恣意的に他者にアクセスして意見を聞いたり、関係のない話をしたいとも思う。ということは、他者の説得であろうか、他者の説得による「私」自身の精錬であろうか、よしんば他者の説得から生じる優越感であろうか。どれも舌足らずな気がする。


あらゆる可能性の海の中でもがきつづけるこの「私」は、こうだったかもしれないし、こうなるかもしれないという、可能性の中で、確固たる現在の自分を正当化してくれる郵便的誤配を待っているのかもしれない。まるで、気分にあった曲が始まるまで半永久的にiPodをシャッフルし続けるように。ここで、iPodの中身の曲数だとか、何が入っているだとか、そんなことは問題にならない。ただ、自分の知識の中で、もしくは新しく知識を取り込んでいく中で、都合のいい郵便的誤配が起こることをずっと心待ちにしてるだけなのだ。それこそがまさに、環境順応型の(コジェーヴの言葉で言えば「動物化」した)オタクのことではないか。つまり僕は無意識のうちに、動物化していたのだ。表層ではそれをバカにしていたくせに。完全に根幹が崩れた。けれども、簡単な事だ。環境に順応していれば良いのだから。順応したい環境になるように制度設計していけばよいのだから。そんなことを、買いたてのビールを持って家に帰った瞬間、思った。曇りだった。