ミラン・クンデラ/存在の耐えられない軽さ

二週間前に半分くらい読んで放置しておいた小説。ミランクンデラというのはフランスへ亡命したチェコ人作家。この小説では、ソ連の占領下における四人のチェコ人がクローズアップされて語られる。冒頭はニーチェの解説から始まる。その後、物語の中で永劫回帰、存在、キッチュというキーワードを軸に作者が語る語る。途中で私小説を断罪したりもしていて。エピソードだけなぞってしまえば(途中でちょっとだれるけれども)至高の恋愛小説。しかし、作者の語りが物語にぐっと奥行きを増させる。作者は四人の駒を様々な層からとらえる。小説の要は筋なのではないということを示してくれる。ある話、話でなくても良い、例えばリンゴ、机の上においてあるリンゴ、これをどのように見るかということが小説なのだ。労働の結実としてみるのか、栄養成分として見るのか、植物の種子としてみるのか、重力の結果として見るのか、その食べ方を考えるのか、つやなどを細かく観察して模写して絵を描くのか、リンゴがあるという語りだけが小説なのではない。着眼、それこそが小説なのだと思う。

可能性の王国など、〜の王国、という言い回しや、その他の表現、雰囲気がゴダールの映画のようだった。フランス語を訳しているからなのかもしれないけれど。

〈大行進〉という言葉の意味が多少分かりづらかった。デモなどの激しい政治的現象の現場を体験しないと分かりにくい概念である。

キッチュという言葉を筆者は「本来あるのに無視すべきものとして扱われている状態」を指して言う。例えば糞だとか。たとえば小さな部族の宗教だとか。アメリカ主導のグローバリゼーションによって排他された様々なものだとか。

キッチュは、現実を美化(時に聖化)する存在論的な虚偽に立脚せざるをえないのだ。 (解説より)

キッチュという言葉は何が何でも大多数の物に気に入ってもらいたいと望む者の態度をさす。

虚偽を真実にするのは数である。支持する人数が多い意見のほうが、正解になる。多くの人を取り込むためには、単純化、簡易化、つまり記号化の作業が必要である。経験社会学という授業の履修者選抜課題に「現代の文化の特徴を具体例を用いて250字程度で述べよ」というものがあったので、僕は「仮想のキャラクター像を人々が共有するというのは現代文化に見られる特徴である。例えば正義の味方であるウルトラマンや昭和の象徴サザエさん、テレビゲーム界の親分的な存在であるマリオを知らない日本人は少ない。キャラクターという単純かつ汎用可能な概念、紋切り型を共有するという行為は多岐に及ぶ。血液型で人を分類してみたり、SやMというおおざっぱな性格分けをしてみたり、、友人を「〜キャラ」と呼んでみたりする。こうした簡易化、記号化というのは現代における重要なキーワードである。」とかなんとか書いてみた。結局履修しなかったけれど。キャラクター化。記号化というのは、クンデラの言うキッチュの概念と合致するところがあるのではないかと思う。そこから先に考えはまだ進んでいない。

クンデラは小説以下のように定義する

様々な実験的自我(登場人物)を通して、実存のいくつかの重要な主題を徹底的に検証する芸術

世界を多義性と理解し、絶対的な真理の代わりに、たがいに相矛盾する多数の相対的な真実(人物と呼ばれている想像上の自我に具現される真実)に直面せざるを得ず、それ故に唯一の確実性として不確実性の知恵を所有しなければならない

これはお得な表現なのでぜひとも覚えておこうと思う。
両親だから愛さなければならないという儒教的な、強制的な愛は自発的な愛に比べれば弱い。強制されることによって反感を覚える人もいるだろう。家族を殺すという事件は、そんな反感から起こっているのかもしれないと思う。

80’sのソウルやブラコンのコンピ盤らしきCDをコピーしたものが発掘される。ルーサーヴァンドロスとか入っていてめちゃめちゃいい。ところどころアーティストがわからなくて非常にもどかしい。高校のときブラックミュージックにはまりかけていた時の遺物だろう。モータウン40周年の記念盤かな。あしたから、そんなCDを持って紀伊半島に行って参ります。