culture politics tax

ビールよりも圧倒的に梅酒やチューハイが支持される昨今、今後20年ほどでビール文化というのは壊滅的になるのではないかという予感がしています。

そもそも嗜好品というのは最初のうちは苦くてまずいもので、たとえばコーヒーだとかビールだとかいうのは、どろ甘のキャンディばかりしゃぶっていた幼い日の僕らの舌には初めからきちんと乗ってくるものではないと思います。通常の生活で楽しめる味覚は甘いかしょっぱいか責めて「酸っぱい」までで、「苦い」という味覚を楽しめるようになるには相当に変態の領域まで入り込まなければいけないのです。

かつては糖分というものは気軽に手に入るものではなかったため、日常の糖分を楽しむために、逆コースである「苦み」をたしなんでいたという側面もあるのかもしれません。

逆に我々は「苦み」を「大人の味」と定義することによって、「苦み」をブランドとして確立し、甘みから人々を遠ざけようとさえしてきました。たとえば鍋を囲む日曜日の夕方、ホカホカの湯気でメガネを曇らせながらおとうさんが「春菊嫌いだって?、おとなになったら食べれるようになるよ、だとか、「コーヒー飲んでみる? ん、苦いか? ま、大人になったら好きになるよ」だとか。

しかし、グローバリゼーションと搾取的プランテーション経営、製糖テクノロジーの発達等により、糖分は決して貴重なものではなくなった。公園の隅、街角のそこかしこで子供から大人までがどろ甘のキャンデーをsucksuckボリボリすることは日常的な光景になりました。甘みベクトルは苦みというヒールを必要とせずにそちらの方向のみでぐいぐいと複雑に育っていくこととなっています。

そこへきて特に都市部のハイカルチャーの退行、幼児化という現象が(この現象を僕自身は肯定的にとらえていますが)20世紀以降人類全体を覆っています。快楽へ快楽へと進む姿勢はテクノロジーを進化させるとともに、自堕落からくるたくさんの病人を生み出しました。「苦み」には誰も見向きもしなくなったのです。

最後に追い打ちをかけるのはご存知ビール税です。相対的に高めにかかるビールへの税金はビールの消費量を減らします。相対的に高めのビール税時代以前にビールの味を知っていた人間は安い疑似ビールをつくることで、ビールへの欲求を満たそうとします。しかし、高めのビール税時代に生きる若者はビールと偽ビールが物心ついたときから並行して存在しているため、そもそも本物ビールの味をよく知らずに偽ビールを飲んでしまい、ビールってまずいなとなる。加えて本物ビールが高いため、本物の方も1、2回試してあきらめられてしまい、コーヒーみたいに何度も飲まないとハマらない性質をもつビールのおいしさは伝わりにくい。こうしてビール離れは進んでいくのです。

政策が文化をつぶすというのはこういうことで、マリファナ文化、たばこ文化、ビール文化等がこうして潰れ、潰れかけています。ネガティブプロパガンダと税、この手法を使えば我々は様々な文化をつぶすことができるわけですが、たとえばたばこやマリファナよりも酒が脳に与える害はだいぶ大きいという報告や毎年の肺がん患者数と交通事故者数を比べてみたりすれば、そうした手法のホコサキは非常に恣意的であることが連想されるわけです。

日本ではやはり今、ビール文化、ビール文化に下支えされてきた野球文化(ビール片手に酔いにまかせてペナントレースの動向を語るサラリーマンの姿がカメラマンをひきつける様はビクトリア湖でアクビするカバのそれに比肩しうるでしょう)等のオヤジ文化が消滅しようとしています。消滅という言葉に誤謬があれば、マジョリティの脈流から脱落するとでも表現できましょうか。僕は特段そのような文化に思い入れはないため、文化の消滅を憂いているわけでもなんでもありません。

しかし、一つの偶然がフラクタルな社会の中で複雑に連関しあい、意外な結果をうむということ、そしてそれがさも必然であると思われていることが非常におもしろいなと思いながら僕は今偽ビール「金麦」を飲んでいます。


こんな曲聴きながらね。
(エグザイルよりも嵐を積極的に応援することをここに宣言します)