ハウスに関する知識

ハウス!! 家に帰れだって? 違うよ。みんなの大好きなハウスミュージック。僕らのハウスミュージック。家を出てみんなで聴くハウスミュージック。4つ打ち(「ウチ」だからハウスなんじゃないよ)を基軸グリッドとした繰り返されるビート。ビートは時に複雑になり、時に淡白な4つ打ちに回帰していく。反復と開放。うわものはなるべく単純でキャッチーでドープな音を繰り返し。ビートはベースラインを使ってメロディを抱きしめる。抱擁の中に僕らを閉じ込める。音楽の中に僕らは閉じこもる。「ウチ」としての音楽。

ハウスとは端的にいえばシカゴで隆盛を誇った「ウェアハウス」というクラブの名前の略であり、抑圧されたコミュニティが生み出した音楽の快楽主義である。差別の渦中にあった、20世紀のゲイカルチャーに下支えされて「ディスコ」は1970年代から急激に発展していった。音楽におけるドクターとしてのDJの誕生、レコードとレコードを重層的につなぎ合わせる「ミックス」という技術、享楽的なダンスとドラッグ。いかにして我々は気持ち良くなれるか、主眼はいつもそこに置かれていた。抑圧された状況の下でゲイ達は快楽を追求するために闘いを避け、地下に逃げん込んだ。同類の集まる場として爛熟していくディスコという形態は、やがてゲイの存在とは裏腹に市民に受けいれられてゆく。抑圧的な都会の生活のフラストレーションを解消する場としてのクラブの誕生である。

冒頭で述べたとおり「ハウス」という言語表現とハウスという音楽の形態はいささかねじれた関係にあった。しかし、時代は流れた。たとえば2009年に入ると、USTとtwitterというweb上のテクニックのコンボでDOMMUNE(DOMMUNE自体は2010年からだが)などに代表されるように、家を出なくても簡単にDJ達のプレイが楽しめるようになっている。我々は二重の意味でハウスに閉じこもるようになったのである。それだけではない。状況はかつてよりもより深くなっている。USTで視覚的聴覚的的情報(経験)を共有しながら、ニューロンレベルでは言語を介して現在進行形で経験を共有している不特定多数と感想や感情を共有する。チャットのように用いられるtwitterは身体というフェイズを飛び越した言葉による意識と意識の結び付きを可能にする。一晩に数千人が同じ音を聴き、感情を共有するなどということが今までおこりえただろうか? なぜ、ディスコティークなDJ専門のラジオ局やテレビ局、ましてや番組が生まれなかったのかということを考えてほしい。電波を寡占的に使用するラジオ局やテレビ局には公共性が求められる上に制作のために莫大な費用がかかる。そのため、アンダーグラウンドな音楽、狭くて深い世界には不向きだったのだ。web上でブロードキャストすることがたやすくなったという現実が一番大きく我々の音楽生活に影響を与えている。もはやホットな場所に行かずして世界の盛り上がりの動向を手に入れることができるようになったのである。(それはリアルタイムDJの話に限ったことではなく、旧来のメディアの弱点であった単一的な時間軸という制限を克服したYou Tubeや、ロングテイルで売り上げを伸ばすアマゾン、世界の路上を一つに集約してしまったようなmy space等にも言えることである。)

だからどうだって結論はない。おそらく現実感が手軽に楽しめるようになったから現実(実際に音が鳴っている箱に行くこと)がますます重要性を帯びていくんだろうけど、だからどうだとかそういうことじゃなくて、単純に自分の部屋で一人で目をつぶりながら、時には目を開けながら、最先端の現場でかかってる音楽が聴けてうれしいってそれだけ。しいて言えば、ハウスという音楽は差別から発生した、カウンターしないカウンターカルチャー、非政治的なカウンタカルチャーだってことかな。結論は。これは本当は僕の言葉ではないんだけれど。


二個目の動画のバックダンサーズの踊りが変すぎるね。