無限の欲求、亡霊が繰り広げる質と量のたゆまぬ鬼ごっこについて/コルシカ島っていう語感が好きだ。

レポートの構想を練るために昨日のゼミのまとめを自分なりにしてみる。昨日の授業のテーマは僕の今年の欲望に関するテーマにかなり接近していたような気がするから。
テーマは資本論第一巻第三章第二節「流通手段」と第三節「貨幣」。題名はそうなっているが、前者は貨幣の流通機能について、後者は蓄蔵機能等流通から脱落した部分に関して言及している。古典派経済学、および新古典派経済学はおおむね「貨幣数量説」をとる。一方アンチ貨幣数量説としてマルクスケインズなどが存在する。両者の違いは交換方程式MV=PTにおいてどこを独立変数とみなし、どこを従属変数とみなすかというところに違いがある。交換方程式においてMは貨幣量、Vは流通速度(取引回数)、Pは価格水準(物価)、Tは商品総量(総生産)である。貨幣数量説において貨幣は実体経済(雇用量や製造量)に影響を与えないと考えられている。つまり、T(雇用量や製造量)は常に一定であり、Mを増やすとPが上がると考えている。つまり、貨幣量と実体経済は関係がない、貨幣とは単なる媒介手段にすぎず実体経済に対して中立的で、それ自体の価値尺度としての価値が変わる事は無いと結論付けた。これは二分法、貨幣ヴェール論と呼ばれる。一方でケインズは貨幣の実体経済対する非中立性を唱え、貨幣と実体経済は分けられないと主張した。つまり、Pは一定の独立変数であり、Tが従属変数となっており、Mの変化でTも変化する、つまり貨幣の価値尺度としての価値は変容するということである。(何によって変化するのかはケインズの本を読まないと分からないけれど、政府による資本投下(Mの増量)で雇用(T)を創出するという発想はMとTの関連性ゆえの発想なんじゃないかな)では、マルクスはどう説明しているか。M=PT/Vという式に表されているように、Tが自動的にMを決定するという事である。Tが投下労働量によって決まり、それによって自動的にMが調整されているということだ。つまり、Mの変化で貨幣の価値が変わる事は無いと言うのである。僕はどれも間違っていると思うけれど、どこが間違っているかうまく説明する事はできない。ここまではあまり、欲望に関するテーマと関係がない。

ここからだ! 話は後半の「貨幣」にはいる。資本というのは商品と貨幣の二種類に姿が変容する。W1ーGーW2というような表記がよくなされる。貨幣数量説、二分法を取る人々は、貨幣が実体経済に関係がないと考えるため、貨幣はただの媒介物にすぎない。W−G変換された貨幣は全てG−W変換され、商品となると考える。つまり、ここでW1ーGを需要、G−W2を供給と考えると、常にS=D、SとDがイーブンなセイの法則が成り立っているということである。売りに出したものは全てが買われ、雇用の供給には全て需要があって失業者は存在しない。しかし、実際貨幣は滞留するとマルクスは主張する。貨幣は蓄わえられ、最初のW1ーG(需要、所得)と次のG−W2(供給、消費)には時間的、空間的隔たり生じる。これはW1−G・GーW2と表記される。具体的に言えば、祖父の遺産で食っている孫だっているし、日本で得た金がアメリカで使われる事もあるということだ。これらは貨幣の蓄財機能という能力によって可能になる。ここではS≠Dであり、むしろS>Dである。このSD不均衡が恐慌の可能性、つまり恐慌の十分条件になっているという事である。

ところで、こうした滞留はなぜ起こるのだろうか? 一般的に貨幣には限界効用がないと考えられている。お金は少しで良いや、というのは貧乏人の発想であり、「灰吹きと金持ちは溜まれば溜まるほど汚くなる」という言葉どおり、銭ゲバ達はお際限なく金を溜める。効用は減退するどころか増えて行くぐらいである。 なぜ人間は無限にお金を欲するのか。生理的な三大欲はある一時点においていったんは収束を迎え、三角波のようなサイクルで我々にわき起こる。しかし、金に対する欲は指数が1より大きい対数関数のグラフのごとく、ぐんぐんと青天井にのびて行く。これはなぜだろうか? まず一つ考えられるは、本来使用価値がない貨幣に対して美的使用価値を見出してしまうということである。骨董品やCDを集めるように金を収集してしまうのだ。美術品に限界効用はない。ただ、この着想は感覚的なものであって精神的メカニズムを論理的に説明する事は今の時点では僕には不可能である。なぜ、美術品に限界効用がないのか、ということは欲望を解する一つの鍵になるだろう。

もう一つ考えられるのは、我々が貨幣の万能性に魅せられるという事である。貨幣は全ての商品に変わる可能性、性質を持っている。つまり、貨幣を持つという事は全てを持つという事なのである。しかし、貨幣を持てる量は限られている。質的には無限であるにもかかわらず、量的には制限されているというギャップが人間と貨幣の関係にはあるのだ。このギャップ、矛盾を埋めるために質が持つ万能性を量が追いかける。しかし、「量」という数量的概念を適用している限り、それは我々の持つ貨幣は有限の檻の中に閉じ込められている。貨幣の質が持つ万能性は炎天下の陽炎のように常に量のはるか先を走り、我々はそれだけを射程において無限にひた走り続ける。ひたすらに量という檻を広げ続けるだけなのだ。ここにおいて初めて無限の欲求という亡霊的な存在が、膨らみ続ける檻から遊離するように立ち上がってくる。我々は、質と量との矛盾が生んだ亡霊とともに永久に終わる事の無い一人鬼ごっこを繰り広げ続けるのだ。

この考え方は、人間のたゆまぬ生への欲求にも適用できると思う。例えば、人間以外の言葉を持たない、言い換えれば生を疑う手段を持たない動物は、生への欲求を本能的に、もしくは遺伝子にインプットされた仕組みだということができる。しかし、遺伝子の構造上のバグから、生を疑う手段と機会を人間は持ってしまった。それは個のみならず、人間という種族を反映させる事の意味をも問いかけ、答えが反響してこないことにいらだちや絶望を覚える。にもかかわらず、ヒトは生き続け、増え続けている。これはどういうことなのだろうか。個人の人間は万能性を持っている。個人は質的には全ての可能性を持っている。しかし、その万能性を一瞬で発揮する事は不可能である。ここで、時間という量的制約が立ちはだかるのである。この問題を克服するためにヒトは生き続ける。瞬間を積み重ねる事によって質的な万能性を発揮できると考えるのである。しかし、数量的な積み重ねはいつまで経っても質的な無限の可能性に追いつけない。無限の生への欲求が亡霊となって立ち上がり、我々は死ぬまで鬼ごっこを続ける。人類の万能性信じる人間は、一生という量的制約を世代をつなげる事、つまり種の繁栄によって克服しようとする。残りのロジックは同じだ。


おまけ:支払い手段という項では、恐慌について語られている。金属貨幣からの流れを組む国家貨幣が、信用貨幣(銀行券等、信用によって発行される貨幣)で代用されるという事は、本来金属の量に対する過剰(逆もまたしかり)というものがあったはずの国家貨幣に、過剰が存在しない(信用の分量だけしか発行できないから信用貨幣には、だぶつきが存在しないと考えられている)信用貨幣が代理される事である。国家貨幣(金属貨幣)が信用貨幣で代用される事によって、貨幣量の過剰等価値に変動があるにもかかわらず、発行されたものは全て一定の価値が保証されるという信用創造がなされてしまっているためそこに齟齬が生じる事になる。この齟齬が恐慌の原動力となるとマルクスは主張している。(と読み取れる)


ふう、これをレポートの一つの立脚点にする。もう一つ考えられるのは商品がもつ物神性の解題。マルクスは、商品は欲望によって成り立っているのではなく、神秘的な力によってその存在が保証されているという。では、価値形態論で述べていた横の論理、つまり、交換は欲望の交差点であるという分析は何処が間違っているのか。交換過程の部分をもう一度読みつつ、これをもう一つの立脚点にすればいいはず。ふう、疲れた。