笑い飯論及び無形文化財論

そして、昨日はM-1を見ていたのです。夕ごはんをつくりながら。腐ったババアという字面にもかわらず、若槻千夏はそれを飲み物だと言う麻婆豆腐をつくりながら。目的はもちろん数年前から僕の心を魅了してやまない笑い飯です。好きな芸人はたくさんいるけれど、彼らは漫才って面白いなと思わせてくれた最初の人たちでした。そしてこれも毎年どこかで書いていることだけれども、僕は毎年M-1で彼らが勝つところが見たいと思っていたのです。マーボーにとろみを加える寸前に一回戦の彼らのネタが始まってしまい、僕は火を消して先に作って置いた野菜炒めをつまみながら見ました。始まりの展開で「ガムの妖精」の亜流ネタだなということがわかったのですが、やはり最初のネタの起爆力はすごくて僕は笑うどころではなく、彼らが爆発的にウケているのを見てほっとしたというか、とてもうれしいと言うか、僕が良いと思うものを良いと思ってくれている人が少なくともあの会場にはたくさんいたということに、滅多にそんな経験がないせいか簡単に感動してしまい、もうなにが面白かったのかも覚えていません。拍手とかしてしまいました。部屋で一人で。今考えるとゾッとしますけど。でも、ああ、けっして学校では主役にならない、妄想力豊かなラジオのハガキ職人的な面をちらつかせる最高の新ネタだったなという思いもあり、彼らが初出場したとき以来の爆発力だったと思います。うれしくて、マーボーに片栗粉を入れる手つきが適当になってしまったため、全然とろみがなくなってしまい、間違えて絹豆腐で作ったせいもあって麻婆豆腐は本当に飲み物のようになってしまいましたが。
そして、麻婆豆腐を飲み終えて決勝二回戦、彼らの芸人としての振る舞いにぼくは再び感動することになります。最後の組で出てきた彼らはファンならば誰でも知っている、少なくとも僕は五回以上見たことのある、野球のネタとラグビーのネタをいつもどおりきちんとやり、ファンを含め大勢の人をあらかたなんとなく笑わせて、礼をしたのです。あれは、決してネタが無かったわけではなく、彼ら自身が一番完成していると納得している芸の形を正真正銘最後のM-1の舞台で披露して有終の美を飾るという意味があったのでしょう。いうなれば、八年間の彼らのM-1における軌跡のウィニングランであり、そしてそれこそが無形文化財たる芸としての本来のあるべき姿だと僕は思うのです。
僕らはボケの展開もオチもすべて知っている、そして何度も見たことのある漫才を再び見てなんとなく笑わされました。これは落語ひいては狂言や能の構造と似ています。筋はすべて頭に入れた上で鑑賞する、にもかかわらず僕らはなんとなく再び感動を呼び覚まされる。きっと阿国のかぶき踊りを、江戸の野郎歌舞伎をその同時代の人々は昨日の僕と同じ目で見ていたのだろうと思います。笑い飯にとって野球のネタとラグビーのネタ(それと蚊のネタ)は、現代の高砂であり井筒であり葵上なのでしょう。彼らはそれを狙っていた。彼らが今後も漫才に取り組み続けてくれることを願ってやみません。

補足:ラグビーのネタはくだらなさすぎてウケが大して良くないことを彼らは知っていて、それでもあえて何回もやってる嫌いがあって、そしてそれでも最後にあえてくだらなさすぎるのを持ってきたいと思ったんでしょう。