スマブラ論

おとといは朝までずっと一人で64のスマブラをしていました。スマブラと言えば現代の若者の必須パーティーゲームです。かつてあった様々なゲームのキャラクターが、かつてあった様々なゲームにまつわる面において、かつてあった様々なゲームのアイテムを振り回しながら、テレビの画面の中で暴れまわります。これが非常に面白い。なんで面白いのか、東浩紀的に分析すると次のようになるのかもしれません。まず、様々なキャラクターがそれぞれのゲーム、つまり大きな物語から飛び出してきて、大きな物語の文脈を無視してそれらをかなぐり捨て、共通の場で暴れまわるということ、これは背後にあるデータベースからの情報の引き出し、及び画面上におけるそれらのデータの二次的な再構成ということを意味します。ピカチュウやネスはポケモンやMOTHERという物語からキャラクタという側面のみを切り取られ。モンスターボールやスターはポケモンやマリオという物語からアイテムという側面だけを切り取られ、スマブラという世界で再構成されるのです。ここで重要なのは、スマブラにはストーリーがないということです。スマブラにおいてはコンピューター及び、他者との対戦を通して一戦一戦に次々と新たな二次的な物語が生まれていく。けれども、それがいつでも二次的だというわけではなく、なじみの友達と何度も対戦することで違う物語が生まれていったりするのです。例えば、「〇〇君が使うドンキーコング」だったり、「××君が使うプリン」だったり、同じプリンでもあいつとそいつでは動きが全然ちがったりします。他にも、ファルコンで百戦錬磨のあいつが使い始めたマリオだのこのタッグで対戦するといつも負けるんだけどようやく勝てたよだの、これこの前スマブラで負けた時から罰ゲームでつけさせられてる便器のストラップなんだよ、だの。最後のは実話だけれど。つまり、一つの共有されたデータベースから抜き出されたキャラクタが用いられた物語は様々な場所において多様に拡散していくのです。スマブラ、この極めて現代的な遊戯。その同時代性というのは決して計算して作られたわけではないだろうけれど、偶然にして必然的すぎる。朝方、そんなふうなことを考えたのです。