ローリング・ストーンズを見くびっていた。

僕が5歳ぐらいの時に死んだはずの祖父とドライブをする夢を見た。走っていたら服や車がみるみるうちにブタまみれになっていった。

昨晩、何を聴きながらカレーを作ったら一番良いのかと思い、カーティス・メイフィールドとかをかけていたら、普通は焦げないところが焦げだしたので、ステファン・グラッペリに変えてみると、いい感じに転がりだす。料理のできを曲のせいにするとか、小説の読みすぎで頭おかしくなったとしか思えないが、ボリス・ヴィアンデューク・エリントンとかもそうだし、よしとする。

ステファン・グラッペリはヨーロッパのジャズ・ヴァイオリニストということになっているが、ジャズといったらリー・モーガンだとかコルトレーンだとか、ビバップ以降のアメリカのものばかり聴いていた時分に友達に借りて初めて聴いたときにはこれがジャズか?と思うとともに、ディズニー映画のサントラみたいな心地よさにどっぷりとはまったのを覚えている。フリッパーズ・ギターの元ネタだよ、と言われても差し支えないくらいにごきげんな音楽。ヨーロッパのジャズはおそらく20世紀前半に移植されたものを基盤にしてアメリカとは別の方向に育っていったものなんだろうけど、アメリカのジャズの(というよりもマイルス・デイヴィス支配下にあったジャズ)の得体の知れない緊張感に対して、ヨーロッパジャズのその心地よさというものがドライブ感よりも近代和声理論の重視したことに裏付けられているということは確かであろう。

ヨーロッパでは第一次大戦以降それまでの共通してあった感覚が崩壊した、というのはよく指摘されることである。科学による大量殺戮という経験を経て進歩に対する過信が崩壊した、とでも言い換えられようか。当時は名前こそなかったもののPTSDという症状が一般化したとも言われている。そうしたパラダイムシフトは芸術面にも影響を及ぼし、ストラヴィンスキーの作風の変化などは現代音楽の萌芽として指摘されているところである。第一次大戦前の精神的秩序の崩壊は近代和声理論をも瓦解させたといえよう。

第一次大戦までは、いわゆるクラシックはブルジョワの嗜みのための音楽であったし、金を持った中流層がハイソサエティに仲間入りするための手段ともなっていた。(当時、彼らはそれをクラシックだとは思っていなかっただろうが)また、踊りのための音楽でもあったし、コミュニケーションのための音楽でもあった。しかし、大戦後クラシックが秩序を失うと、人々の関心はビートのあるジャズに移ってゆく。秩序なき場所には、コミュニケーションも踊りもハイソサエティも生まれないからだ。そのために、ヨーロッパの中流層は分裂症をわずらったクラシックを見限り、代わりに全盛のアメリカからやってきたジャズに秩序を託したのだと思う。アメリカにおけるジャズよりも、ヨーロッパにおけるジャズの方がアカデミックで「上品」、悪く言えばお高く止まっているように聴こえるのも、そのせいではないだろうか。

ビバップ以前のアメリカのポップミュージック、例えばデューク・エリントンガーシュウィンの音楽には和声による秩序の心地よさとビートによる享楽のゆらぎの中間にある絶妙さを感じる。にもかかわらず、聴き手に緊張させない。アメリカにおいてそういった流れはバート・バカラックのポップスだとか、ソウルやR&Bに汲み取られていったように思う。

ではなぜ、マイルスがあんなにもストイックになって、アメリカのジャズを牽引していったのか、それはかの有名な「M/D」を読んで学んでみてください。高すぎるし、分厚すぎて僕の手には負えないけれど。

ステファン・グラッペリに関しては確か小沢健二の「球体の奏でる音楽」を聴いたときも似たような感覚を覚えた。ビート音楽全盛時代だけれど、和声を重視した室内楽的なアプローチのアカデミックなポップスが聴きたいなと思う。とかなんとか、和声なんてちっとも知らない僕が書いても何の説得力もないけどね。 そういえばハンバート・ハンバートってロリータの主人公のおっさんの名前だって気付いて、この前ハッとしたっけ。


ローリング・ストーンズって聴かず嫌いだったけど、こんないい曲も書くのね。歌詞も素晴らしい。