お前、そこまであるんだったらもう靴下とは呼べないよ

「靴下一丁で街を闊歩しても捕まらない理由はそれだったのか」と気づくストレッチマン。街は晴れたり曇ったりしていて、虹待ちの野郎どもが多数出没しています。ただ、溜まっていたたくさんの黄色い「靴下」を洗濯機に入れて、洗剤を入れて、スイッチも入れた瞬間に雲が再び切れだしたので、良い兆候です。そしてストレッチマンは今日もストレッチに勤しむのです。 「光街図書出版 国語3 いそしぎ」より抜粋

フリーライダーの多い世の中では、何か行動を起こしつつも人に眉をしかめられないということは難しいと感じる。結局イソギンチャクみたいに最低限の言動をもってして浅瀬でゆらゆらゆれているほうが無難なのだ。

だが、誰かがやらなければ立ち行かないことがたくさんある。言いたいことややりたいこともたくさんある。

この前の朝は、人口が多いとフリーライダーが増えるのも致し方ないけれど、北欧が福祉や環境問題で先進的なのはやっぱり人口が少ないために諸処の問題が個人に跳ね返ってくる度合いも大きいから個人の問題意識が強いのだろうなんていうことを先輩と話していたし、おとといの夕方は共有物を取り合う際に他人との折衝を拒んで個人の合理性だけで人々が行動していけば、共有物は瞬く間に滅びてしまう、というようなゲーム理論の話を聴いていた。(他人との折衝を拒んで個人の合理性でのみ行動するのはフリーライダーの典型であろう) そして、フリーライダーの増加は大きな物語を失い、ポストモダンへと突入した社会、東浩紀のようにコジェーヴの言葉を借りるならば「動物化」した社会、の現状を鑑みる限り必然のように思われ、そしてその部分の分析が東浩紀大澤真幸らによく浴びせられる「論じる対象が普遍的でない」「その理論を社会全体に敷衍することが可能なのか疑問」という批判を跳ね返す糸口となるのではないだろうか。

ともかく、八の字になった眉の隙間をうまく縫ってやっていかなくちゃならないのだ。フリーライダーという言葉を思い浮かべるたびにスローライダーのメロディが頭の中で流れる。


レヴィ・ストロースが亡くなってから、なんとなく構造主義を復習していたのだが、わかりかけたところで、ソシュール記号学とパースの記号論はどうやらかなり違うらしいということを、先日たまたま8ページだけ読んだデザインの本で知った。記号学が2項(シニフィアンシニフィエ)で構成されるのに対して、パースの記号論は3項で構成されているらしい。が、その中身はまだ知らない。

時間があると何もできない。水曜どうでしょうのDVDを2本も見てしまい、昨日はトマトスープを煮込みながら新書を一冊読み直しただけ。読み終わった本2冊に関する覚え書きを書かなくちゃならないし、さらに5冊ほど読みかけで溜まった本の処理、フランス語、二時間後に始まる授業のテキストの黙読、とやることは様々なのに。西日で起きるような生活の改新が必要だね。645年に戻って刀で斬られて。