ライブレポート 11月20日 ゆらゆら帝国 in京都MUSE  

ロックキッズにゆらゆら帝国を渡してなるものかと、そう思った。時刻は7時10分前、11月の半ば。駅の地下はマフラーを巻いて家へ帰る人々でごったがえす一方で、四条烏丸の改札横のロッカーに日常を閉じ込めて地上に飛び出す人が300人。会場は天井の高いちょっとした中箱で、薄暗いステージの上のマイクは坂本さんの口の高さを示唆している。スモークが炊かれ、照明が落ち、サイズを間違えたTシャツに対する後悔がミラーボールの代わりに頭を回る中、おもむろに少年は夢の中、何となく夢を、と夢シリーズが演奏される。ライブ序盤からよろめくようなギターソロが展開され、この先どうするのだろうかと危ぶんでいたところ、新曲らしき曲を挟んだ後の曲、これは後に「グレープフルーツちょうだい」だったと判明するのだが、そこでの音響的処理の素晴らしさ、特にギターから出ているのにもかかわらずギターを想像させない、どこから出ているのかさっぱりわからない、それでいて肋骨ごと内蔵をぶるぶると震わせるぶっといサイン波やリバーブとエコーでぐちゃぐちゃになったボーカルが、「越えている」という印象を与える。何を越えているかとかそういったことではなく、何でも良い、何かを越えるときのその感覚、印象に近いものを感じた。この時点で観客の聴覚は完全に破壊され、帝国の支配下となる。無い!、あえて抵抗しない、できない、の「パーティーはやらない」を欠いた、ないシリーズが演奏されても、服の震えをたよりにベースの音を感じるような、耳の向こうの騒ぎをすりガラス越しに感じるような、会話における全ての単語が「あれ」で代用されてしまうのではないかというほどの脳の力の低下を感じるような、そういった感覚は続き、何も無くなら「ない」のだ。終盤の「ロボットでした」で箱は轟音の満たされ、海というよりも瓶詰めの液体のような感じ、つまるところ僕自身の身体は瓶詰めのサイダーの泡になってしまったかのように感じられた。その瞬間、音のなっている空間に対する音の鳴っていない空間という比較によって、ライブハウスの中で僕自身の身体とその内部が突如として浮き上がり、より身体というものを意識するとともに、音を感じている精神というものが身体とは明らかに異なる属性を持つという事の確認をさせられる。というような感想を言葉にまとめようとしているうちに、ベースの大きなペグがダイヤモンドのようなきらめきを見せたかと思うと、一瞬のうちに幕が下りてしまった。
帝国はロックの範疇を越えてのみこみ、音を、人を、そうやってぐんぐん膨らんみ、君臨している。もはや外が寒かったかどうかすらも覚えていない。