構造と力/浅田彰 序に代えて

受験時代、高校の自習室の帰りに衝動買いして、そのまま帰りの電車で斜め読みして放っておいた本である。今回実家に持ってきていた。浅田彰齢24歳にしての処女作である。

以下はきわめてマゾヒスティックな実験である。
そもそも読書記録をつけるため、そしてそれを単なる記録ではなく読書中の思考の整理、ひいては思考の発展の場とするためにはてぶを再開した。そういった行為はやはりミクシィではやりにくい居心地が悪い、と周りの評判を聞いていて感じたのである。(かといってはてな記法に習熟しているわけでは一切ないのだが) ミクシィとはてぶを分けることも考えたが、思考と日々の生活は密接にそして相互に関係していて差別化することは意味がないと判断したためはてぶに統一した。そんなわけで、まともな読書記録としては第一弾である。

方法を確立せねばならない。たとえば、だらだらと感想を述べるのもひとつであるが、それでは思考が発展しない。実は最近本の読み方を変えた。積極的に本を汚すことにしたのである。分からないところには線を引いて、分かるところでも今まで自分が気づいていなかったところには別の線を引く。思考の断片や疑問は欄外に記入しておく。前々から、読書の最中に思考が活発になると感じていたのだが、その活発さ、頭がロケットのように、もしくは鉛筆のように、細く長く上へ上へと尖ってゆき、頭上の空はいつにも増して青みを帯びてゆき、今にもそこへ向かって発射しそうな感じになる感触、そういう感触をぜひともつなぎとめておきたいと思っていた。その方法として、本を汚すというきわめてオーソドックスな方法を選択し、さらに汚した部分を整理するという行為をここで行うことにしたのだ。いつまで続くか分からないが。

本は分かる部分は読まなくていい部分である。分かる部分だけを読んで、わかったわかったと言っているのは時間の無駄である。分からない部分を読まなくてはいけない。そして、分からない部分を読むための道具として分かる部分がある。そう思う。

・序に代えて
まずこの「序に代えて」というのは、この部分だけが中央公論に寄稿されたものである。ほかの部分は現代思想だ。だからというわけではないかもしれないが、少しだけ読みやすくなっている。それが編集というものか。大学で学ぶということを例にとって、現代におけるアカデミズムとは何かということが問題にされている。主眼となっているのは大学の教養課程をどう捉えるべきかということである。教養課程とは純粋に、専門課程に入っていくにあたって見識を広げる、物事の捉え方を広げるものである。と同時に、自らの専門課程のみを専門的に扱うのではなく、専門課程で得た知識、パースペクティブを一般的なものに落とし込んでゆくときの道具になるものでもある。つまり、教養課程から、専門課程へという一方向のみの矢印を考えるのは間違っているといえる。いろいろなことを知り、考えを身につけていく一環として、「専門化」というのを体験するという捕らえ方のほうが良いと思う。つまり、機軸は常に教養部分にあるということだ。「音楽は何でも聴く」と言っている人でも、自分の専門分野しか勉強していない人間はたくさんいるが、音楽に対する好奇心と学問に対する好奇心を分断している時点で、「なんでも」のとらえ方が間違っている気がする。音楽は学問的にとらえなければならないし、学問は音楽的にとらえなければならない。そのつながりがリゾームというものである。

意味が分からなかった文章

<もの>が物質=エネルギーであるとすると、<もの>の<かたち>、空間的・時間的パターン、それこそは最広義の情報にほかならないのであり、大学が情報の生産と伝達の場である以上、あなたがそこで参加するのは、<かたち>を見定める作業以外の何ものでもない   p3

コスモスとノモス   (随所に)

不均衡累積過程 (岩井克人)

アルチュセールマルクスが近代のドクサに亀裂を生ぜしめる瞬間を、認識論的切断と呼ぶ

見るべき文章

ひとつのパターンを後生大事に守り抜くことは寺院にこそふさわしい。大学はできあがったパターンをズタズタに切り裂く場でもあるのだ。 p4

僕が土曜日ごとに京都の寺を回ってくだらない感想を言っているのも、こういった行為の一環であろう。寺が守り抜いているパターンを見抜くことで、守る方法、守るべきものを学ぶことも必要だが。

シラケることによってそうした既成の文脈一切から身を引き離し、一度全てを相対化してみるほうがずっといい。  p5

つまり、相対化とは物語から離れることであり、シラケることである。シラケすぎるのもかっこ悪いから、物語に入り込みつつ、隠れてシラケるのが最近の流行なんじゃないかと思うけれど。

ドクサという言葉をパラダイムないし構造という語で置き換えても大過ないことに注意しておこう

YMOはいつぞやの番組で構造から音楽をつくると言っていた。つまり、ドクサは引き出しであるともいえる。どれだけ構造を知っているか、それらを巧みに操れるか。全ての構造を網羅すること、アンチ脱構築としてはそういうアプローチもあるかもしれない。

スタイルといい、感性といい、いかにも軽薄な響きではある。けれども、感性によるスタイルの選択のほうが理性による主体的決断などよりははるかに確実な場合は少なくない。その意味でぼくは時代の感性を信じている。 p5

純粋に名言。これこそが映画を観たり、小説を読んだり、音楽を聴いたり、絵を観たりする理由でもある。そしてこの言葉に理性的な裏づけは一切ない。彼自身「感性」によってそういった「スタイル」を選び取っているのである。

過程が継続している限り、破局は先へ先へと延期され、人々はかりそめの安定を得ることができる。それだからこそ、人々は究極の目的について問うよりも先に、そのつど前進を続けることを至上命題とするのであり、なんら絶対的基準を持たぬまま、より速く、より遠くまで進むことのみを念じてやまないのである p12

過程を継続させることで、目標を遠ざけて、考えてしまえば絶望することについて考えないようにしているという人間の生き方。サラリーマンの生き方を適確な言葉で打ち抜いている。そんな生き方は楽でとてもよいと思う。

日常生活そのものが世俗化された持続的ポトラッチと化していると言うべきだろう

数年前に「カーニバル化する社会」っていう本がはやったけれど、ここですでにふれられている。

(経営政策、社会政策等)これらはみな、究極の目的を持たぬ手段であり、自己目的化し肥大していく運命にある

文系のほとんどの学問がそれにあたる。

経済学史を例にとれば、最も大きな声で王様は裸だと叫んだ子供は、ほかならぬマルクス、不均衡累積過程の帰結としての強行の必然性を説いたマルクスであった。

僕がマルクスを読み出したのは、アンチオイディプスを理解するためである。ぜんぜん読み進めていないが。

(文学や理学に関して、応用科学との対比の文脈において)自己目的的な純粋科学であったものが、メタフォリックな対応によって社会の秩序を支える役割を果たすようになる。(中略)本来全体足りえぬものを全体と信じ、そのヴィジョンを曼荼羅のごとく崇拝することで近代社会の宗教と化す。

確かに、脱構築エクリチュール差延ドゥルーズ・ガダリっていう二人の人名なんてのも最たる例だけど、それらはひとつの祝詞、もしくは真言として扱われるているような気がしなくもない。アカデミズムと宗教は構造が似ているのか?

資本論なんてどう見ても寝転がって読むようにできているのだ。ちなみに、「本と娼婦は、ベッドに連れ込むことができる」と見得を切ったのはベンヤミンであった。

ベッドの中なんかで読んだら確実に寝るけど。

あいてかまわず連結し、また切断し、それを際限なく繰り返すのその無節操ぶりの方が、やせ細ったアイデンティティなどよりはるかに生産的だということは、強調しておいて良い。

無節操ぶり発揮したいです。おでんからハウスまで、ハウスからニーチェまで、ニーチェから便器までという具合に。

圧倒的な柔軟性を誇る近代のドクサに対して、パラドクサを突き付けてやまぬこと。そのことで、近代社会を貫く膨大な前への流れに微妙な遍曲を生ぜしめること。これは先にふれた、マルクスの方法の「可能性の中心」ではなかろうか。

この文章に対する理解はかなりグレーゾーン。「可能性の中心」の意味がわからないので。柄谷行人の「マルクス、その可能性の中心」はまだ読んでいない。「可能性の中心」がマルクスの用語なのか、マルクスを語るときの用語なのかが問題。
多少マルクスについて触れられている。19世紀末から20世紀初頭は支配するイギリスに対してたてつくドイツ 20世紀は支配するアメリカに対してたてつくフランス という構図で物事が語られてきた気がする。ドイツ、フランスはマルクスニーチェハイデガーなどで結びつく。ハイデガーは難解すぎてマスターピースにはなっていない気がするが。簡単に言うことが必要なのであろう。それに対して、いや、だめだ、無理に構造にあてはめるのは良くない、構造からは脱しなくてはいけない、と考えるときもある。

朝、ヨーグルトを食べながらアズテック・カメラを聴いていたら、母親がそのアルバムをすっかり気に入ってしまう。