われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか

一雨一雨が街に暖かさを呼び込む季節です。今晩も、僕はインターネットを見ています。僕はこの一年、悲劇のヒーローを気取りたがる日本の大学受験生たちを小馬鹿にしながら、僕なりに頑張ってきました。数十時間後に始まるその一過性の試験の前では人の人生というものはあまりにも軽んじられます。そもそも僕は人には差がないと思っています。性格だとか個性とか言うけれど、それは結局ある個人が別のもう一人の個人をどう見ているのかという、そういう主観的な説明にすぎないと思います。だから僕は人の性格なんてどうだっていいと思っているし、たぶんみんなすごくいい人なんだと思っています。そういう愛すべき人々を選別するのは非常に難しい。ゴーギャンは死に瀕した時に描いた絵画の隅に、きわめて20世紀的なメッセージを書き残しました。たとえばあなたが街を歩いている時にそんなことを尋ねられたら、あなたはきっと狼狽するでしょう。それぐらい強い強い問いかけです。僕は何度も何度も一人で狼狽してきました。薄い甘皮一枚分の角度の差で、一見同じに見える二つの起動は何万光年か先では何万光年もの開きを生み出してゆきます。そして二つ軌道のうねりはまたいつか接近し、、薄い甘皮一枚分の角度の差で同じに見える軌道をたどることになるのでしょう。その薄い薄い透明なフィルムを剥いで軌道を修正するのに人々がどれほど苦労していることか。ある者はフィルムの下にある実まで爪でえぐり取ってしまいます。再生するまで待たなければいけません。またあるものは巻き取った傍から別のフィルムをかぶせてしまいます。そしてタチの悪いことに、そういう場合に限って新しいフィルムは透明なのです。おそらく、百年後にはこの存在というパラダイムにはカビが生えているのでしょう。けれども、僕が何者であろうと、どこから来ようと、僕が明日8時の列車で京都へ行くということだけは確かなのです。
いってきます。それじゃ。