未来について。

最近赤塚不二夫の死に触発されてかされずか手塚治虫特集がいろいろなところで組まれている。今日もその一端を読んでみたら、「手塚治虫が描いた未来」という項目があり、(「東京人」やつだったかな)それで考えたのだけれど、過去にとっては未来である現在そのもの、そして現在における未来像そのものが、知らず知らずに過去の人間の未来の想像に大きく左右されるのではないかと思う。「創造しうる事は全て現実になる」とか「できるかできないかの議論をしているうちは何も実現せず、できると確信して実行すれば確実に実現しうるのだ」とか、(これはロシアが短期間で核開発をしたことを例によく指摘されるのだが)とか言うように、現在の人間の研究は特に科学の分野では、できればいいな、と欲したり、こうなるかもしれない、と想像したりする方向に向かいがちである。ロボットだとか宇宙に行くだとかは誰も想像しなければ実現しないだろうし、核兵器だって、「たくさん人を殺せる道具があればなぁ、どらえもぉん」と駄々をこねなければ、誰も作りはしなかった。世界は確実に人々が欲する方向、少なくともに進んでいくのだと思う。子供の頃に見た漫画やアニメの未来の姿に影響された何らかの共通の「未来像」というものを人々は確実に抱いている。「近未来的なフォルム」だとか、「近未来的なサウンド」だとかそういう表現が使われるのがそのことをよく指し示している。

だからつまり僕らはとりあえずいい未来を積極的に想像しなきゃいけないんだという事。積極的に想像をして科学や技術を望む方向へ動かしていかなければならないのだということ。そして明日はそんな過去の人間の想像や願望に支配された街「みなとみらい」にて落語を聴いてきます。