将棋をしている人について

2か月ほど前に昼休みに将棋をしている人を怒らせようと思って、隣で「必ずどちらかが勝つのに何のために、将棋をするのか?じゃんけんじゃだめなのか?」だとか、「戦争で人を殺していい理由と、将棋で駒を取っていい理由は同じなのか?」だとか「そもそも、将棋盤の上では戦っていいのに実際に人と戦うのが禁じられているのはなぜなのか?」だとか、そいういうくだらないことをききまくっていたら、今日になってなぜか突然とても怒られた。というより、怒っているらしいという話を人づてに聞いた。相手の人は成績もよくて頭もすごくいい人なので(この二つの要素がきちんとそろっている人はかなり稀である)僕は怖気づいているのだが、まぁそんなことはどうでもよくて、今日はなぜ将棋をして良いのかについての疑問を並べ立てていこうと思う。

まず、個人としての人間を負かすことはその手段として許されているものと許されていないものがあるということ。将棋は可であり、暴力は不可である。なぜそうなのか。暴力が可で将棋が不可だということは、その手段が痛みを伴うものであり、人が死に至る危険性がある場合にその手段が禁じられるということなのだろうか?だとしたら殺意を持って将棋をしても(当然相手は死なないのだけれど)殺人未遂にならないのだろうか?そもそも暴力が禁じられているのは人に危害が加わるからであって、その相手を傷つけようという気持ちの禁止には何も法は関与していなのだろうか。
スポーツや盤ゲームなどにおいて相手を打ち負かそうという気持ちが垣間見えるとき、僕はたまに、ごくたまに、そこに殺意の萌芽のようなものを感じとってしまう。すごく恐ろしくなる。観戦している分にはそれはそれで楽しいのだが、時に自分がその戦い(試合)の張本人であるときは、恐ろしさの余り今にも逃げ出したくなる。相手を打ち負かしたいと思う気持ちと殺意の境界線は一体何なのだろうかと思う。そして、その境界線をぐっと日常の些事ぎりぎりまで広げて来た時に、なぜ将棋が娑婆で許されているのかをふと疑問に感じる瞬間があるのだ。

また逆も言える。集団としての人間を負かす手段として、戦争が許されており、ここではその手段として暴力が使われる。将棋についてはわからない。将棋で戦争をするということをしない理由はなにか。金もかからないし、時間もかからないし、人も死なないし、痛くないし、悲しくもない。将棋が暴力と同等なものとみなされうるのであれば、将棋による戦争が成立するはずである。現にそれが起こっていないのはなぜか。

やっぱり世の中はよくわからない。おそらくおおざっぱに言えば慣習で回っている部分が大きいからなのだろうと思う。「集団の幻想」というやつである。正しいと思いこまなければ成り立たないことが世界にはたくさんあるみたいだ。