古典で「心配りのいたらなさよ」とか訳させられるときの心苦しさよ

受験古典の訳って吐き気がするほどロマンチックに日本語離れしている。
昨日は全統の数学の復習、MKB(AKB、もしくはAKFみたいだな)10-1復習、スタンダードの微積6問と数学漬け。他にはZ会世界史10-1をタダでやったのと、EKを途中まで。EKやってたら中途半端なところで図書館が閉まって、続きを家でやろうとしたら、なぜだか三島由紀夫の「美しい星」を読み出していて、ちょっと疲れて眼鏡をはずした瞬間寝た。眼鏡をはずすという行為が眠りへのスイッチになっている気がする。
昨日読んだのは、TV BROSのプーチン特集。表題は「我らがプーチンに男萌え、ハート」見たいな感じでめちゃくちゃ面白かった。プーチンを「ヒーロー」っていう観点からみてておもしろい。ちょっとかっこいいと思ってしまった。ちなみにハゲフサの法則は未だもって進行中らしい。
それから新潮の新潮新人賞、「クロスフェーダーの曖昧な光」とか、待ちに待ってたDJ小説かなと思ってたら、冒頭の設定の時点で漫画で描けよっていうぐらい笑っちゃう感じだったので読むのをやめた。ターンテーブルとか一切関係ないらしい。終りについてた選考者の言葉を読んで、ますます読む気をなくす。浅田彰桐野夏生福田和也町田康とそうそうたるメンバー。(にもかかわらずこの賞自体は不発な賞である)松浦理英子はよく知らない。金閣寺のオマージュのつもりだったらしい。あっそうだ、だから「美しい星」を読み始めたんだった。浅田彰の文章が流れるような美文でびっくりした。
「美しい星」は失敗作と言われるけれど、本来は評論にするような「人間」に関する内容を「宇宙人」という枠外の視点を用意して、あくまでも詩的に登場人物に語らせるというシステムが僕は好きだ。最後まで「宇宙人」というキーワードが「マジなのか勘違いなのか」わからないまま終わるのがよい。