キラキラ

金がなぜ貨幣になったかというのには諸説あるらしいが、「キラキラしているから」というのが今のところの僕が一番信用している見解である。
分割可能で、希少(つまり、持ち運ぶ質量が小さく抑えられるということ)、均質で保存可能、実用性があまりない、から貨幣として使い易かった、ということは想像によってしばしば説明されることであるが、これではさまざまな文明において金以前に家畜が貨幣として使われていたということが説明できない。ここで持ち出すのが、異質さ、畏怖を感じる対象、エイリアン(alien) という概念である。
人間には光に対する畏怖というものがあって、光をもしくは光源である太陽を神として祭り拝む。そして貴金属、特に金は宗教的なもしくは権威を示す装飾具として使用される。これは、人間の光に対する畏怖とつながっている。つまり、太陽の光を反射してキラキラと輝く金は、擬似的な光として重要視されるのだ。これは、金が豊富な中南米古代文明にあってもやはり金が随一の装飾具として重要視されていたことからして自明だろう。同様のことは獣にも言える。獣はしばしば祭り上げられ、崇拝の対象となる。
我々はなぜ、異質なものを崇拝するのか。我々は異質なもの、エイリアンを排除する。それが、差別や疎外、そして崇拝となって現れる。言葉を変えれば、差別、疎外が下方排除であり、崇拝が上方排除なのだ。上方、下方がどう仕分けられるのかというのはよくわからないけれど。光や家畜、という我々に恵みをもたらす人智を超えた存在として金や家畜を上方排除した結果、それが貨幣して扱われている。考えてみれば、お金に対する異質さというのを感じることがなくもない。例えば紙幣はメモ用紙とは確実に違ったものとして我々の目に飛び込んでくる。人々はそれだけを排除して財布に入れて持ち歩く。大きな物語の喪失が主張される成熟した消費社会においても、光や獣など人智を超えたものに対する畏怖は貨幣となって我々の心の隙間にしっかりと入り込んでいるのだ。

そう考えながら、曽我部恵一bandのキラキラを聞くと、なんとなく感慨深い。キラキラしたい。崇拝されたい。頭ひとつ飛び抜けたい。優しさの中にも、あえてバカみたいに明るく振舞っている裏の野心が見え隠れする曲だと思う。

文章書くと気分がスッキリするな。