それはちょっと

おとといは12時過ぎに起きて、芋を食べながら本を読んで、4時半から始まる資本論の授業に出る。初期マルだとか唯物史観だとか中期マルクスだとかごちゃごちゃ言って考えて、授業が終わってみて、生活や勉強がなんというアナクロニズムに陥ってるんだと考えて落ち込む。でもデリダフーコーアルチュセールの弟子で、彼の考え方はマルクスの読みの転換から生まれたものだし、あー。経済の理論としては信用していないけれど、その説得力とは何か、影響力とは何か、何が粛正を生み、20世紀の社会主義国家の「間違い」を生んだのか。生活や勉強は無性にこみ上げてくる悲しさを紛らわすために。
鈴虫寺に行ったら井上和香が居合わせた。らしい。グラビアのアイドルだとかの一生について傘で砂利をいじくりながら考えていたらいたたまれない気持ちになる。午後からは降水確率があがるとの予報だったが、夕方ごろ空は晴れ渡る。盆地のの西の果ての大きな川を渡す大きな橋の上からの、もやがかった遠くの風景、山々を遠近感が貫いていて、夜より夕暮れのほうが光がぎらつく。夕方、街を抜けるバスの抜群の叙情感。バスの中からの風景の、飛ぶように向かってきては去ってゆく光の、矢のごとき光の、光陰とは月日のことで、アインシュタインよりもずっと前に時間とは光のことだということをうすうす感づいていた昔の人々の無邪気なことば遊びが象徴するような、光と影が織りなす時間。本当に飛ぶように。網を抜けてゆく水の流れのように。網を引き上げてしたたる水滴の分量くらいしか、経験としての記憶には残らないのだ。それは、その分量は、そりゃもう、ちょっとの。