同じ秋の味覚でも、梨のみずみずしさは夏よりの秋、サツマイモのあたたかな甘みは冬よりの秋を感じさせるよね、って言ったね。

女性の先輩が書いた小説にゲイが登場していた。ゲイに関する小説ではない。しかし、そしてだからこそ、ゲイであるという事が既に一つのステータスになっているのかもしれない、という感を抱いた。それは妄想が生み出した、文学が生み出した、瓢箪から駒風の転換であると思う。

3日前に罰ゲームでバイトの面接を受けた。川沿いにある老舗の大きな中華料理屋である。そこで、自己PRをしてくれ、と言われて何も言えなかった。自分を見ることができるのは他人だけだ。自分は自分を見れない。自分を見ているフリはできるけれど。自分を見ているフリをすれば良かったのかなと思う。とりあえず、本を読んでいるという事を伝えた。すると、本を読んで何を得ているか、と聞かれた。ここでも何も言えなかった。できることなら、「本を読んでも何も得られないことを得ている」と答えたかった。断片、残滓が残って自分の生活に影響がでる。自分の生活が楽しくなればいいと思って本を読んでいるだけだ。何も得られやしないのだ。それでもって「パースペクティブ」と苦し紛れに答えた。面接官は肘をついてたばこをふかしながらこう言った。「それはね、困るんだよ。本を読んで、あっちの人はこういっている、こっちの人はこう言ってる、それらを比べてね、これは正しいけど、これは正しくない、ということを君自身が判断してもらはないとね、君自身の見方ってのをつくっていかないといけないと思うんだけど、どうかな?」ぼくは、「はい」と答えた。これは答えなかったに等しい返答である。言われうることは全部正しいと思っているので、僕の周りには相反していても正しい事がある。君も正しい、僕も正しい、それでいいんじゃないかと思っている。でぶのあいつがおとといまで風呂にも入らずに僕のベッドで寝腐っていたのも正しければ、それに対して僕が少し腹を立てたのも正しい。結果として起こっている事には全て正しさが漂う。例えばおみくじに大吉と凶が同じ本数入っていて、大吉を引いて喜ぶのが正しくて凶を引いて喜ぶのが正しくないというのは、人々が慣習の中で決めてきた共通の妄想に反するからだ。妄想と言う言葉をフィルムー半透明のーという言葉に言い換えてみると、本を読む行為とは、どの色のフィルムとどの色のフィルムを組み合わせればどの色が見えなくなるのか、どの色がどのように見えるようになるのかを知る行為である。自分の見方を決めるための行為ではない。
僕はいつでも、何十枚、何千枚のフィルムを持ち歩いて、一つの風景をたくさんのフィルムを通してみていたいと思う。それは楽しい。そうすりゃ、瓢箪から駒だって出る。現に駒だって出てる。だからみなさん、僕と会ったときは手持ちのフィルムをちぎって少し分けてください。僕のやつもちぎるので。

翌日、面接官が、肘をついて煙草をふかしながら話していたのが気に入らない、という理由をつけて中華料理屋の番号を着信拒否にした。こうすれば落とされたかどうかがわからないからね。俺最低。