シンガポールの海はマーライオンのゲロである。マルかバツか。バツ。

書いてあることを読むのは誰でもできるんだけれど、結局自分のバイアスにかけて、自分が解釈したいように解釈してしまう。どうしてもそうなる。その読書に意味があるかないかとかそういう話ではなく、常に自分は感情をベースにして何かの味方をしてしまうのだという事を意識していなければならないという事である。

例えば桃太郎の昔話を聞いて、「桃ちゃんエラい、やはり正義は振りかざすべきである」(この「振りかざす」という書き方にすらもう僕の感情が入ってしまっているのだけれど。)と思うのか「鬼が一体何をしたっていうんだよ、その財宝はもともと鬼の財宝じゃなかったのかい? 桃太郎こそ鬼を殺してそれをぶんどってきた鬼なんじゃないかい?」と思うのかは完全に論理ではなく、どの論理の自分が用いるのかを定める感情によるものなのだ。

どんな感情が人に生まれるのか、はそれまでの当人を取りまいていた環境や当人がその環境の中でどう生きてきたかが決定する「麻薬やると変わるよ!」と聞いて「あー気持ちよくなれるぜ。」と思うか、「あー悲惨な姿に変わるんだろうな」と思うかは当人のそれまでの生き方次第である。

昨日英語の塾の教師が、キリスト教の話をしていて、キリストの誕生日が12月25日だってのはそれまでに隆盛だった太陽を信仰する土着の宗教の影響で実際は違うんだよという内容で、それは僕も知っていたのだけれど、次に話はマリアの受胎の話になってこっちは初耳だった。 当時バビロニア地方で流行っていた宗教の風習で、女の人がその日一番最初にその女の所に来た男となら誰とでもまぐわうという日、というのがあって、そこでもし妊娠した場合は、それで生まれた子供は父無し子として崇められていたらしい。マリアの受胎の話はこの風習の影響を受けているのだという。彼はさらに付け加えて、この風習は男尊女卑が激しかった当時は女の人が男の人に声をかけるのはご法度だったので、そういう雰囲気の中で、女の人にチャンスを与えるために行われていた風習で、実際は女の人は誰とでも寝るのではなく、前もってめぼしい男に一番最初に来るように言っていたらしい。彼は最後に「要するに、制度っていうのは必然から生まれたもので、うわべだけを聞いて野蛮だわ、だとか非難するような人は、イスラム教を遅れてるだとか言って非難しているキリスト教徒となんら変わりばえのない浅い人間なので、みなさんはそうならないようにしましょう」という言葉で話をしめた。だからなんという事もないのだけれど。