評論について

評論については賛否両論ある。あるテーマを読み解くヒントにもなりうるし、独りよがりのただの感想でもある。評論家という肩書きは全部自称だ。マスターピースを語ることはもちろん、ネット上の感想も広い心を持って見れば評論と呼べる。時代が下るにつれて、大衆教育が充実するようになり、大衆による自由な表現が許されるようになり、それに応じて評論の対象となるものも、評論それ自体の量も激増した。

うん。ここで思うのは、あるテーマのオマケとしてではなく、評論そのものを作品として見る事もできるんじゃないかという事だ。マスターピースを作り続ける事は不可能だ。量産されたらそれはマスターピースではない。だから評論の対象となるものが氾濫する中で、むしろ数少ないマスターピースが重視されるようになってきたように思われる。(源氏物語琳派だのフェルメールだのと、クラシックなものが息を吹き返してきていることからも伺える) それらをどういう切り口で見るかという視点の決定と断面の模様でその評論は新たな一つの作品となりうるのではないかと思う。評論は往々にしてかっこつけたがりが書くものだから、中身は仰々しくなるので、人はそれを信奉したり、なにかと疑りがちになる。正しいとか間違ってるとかそういう幼稚な二項対立じゃなくて、もっと他の文学作品と並列の位置にある距離のとり方があると思う。いや、もう伊藤整賞とかあるか。まぁいいや。

さらば青春の光」のサントラを朝流していたら、母親がなぜだか突然桃井かおりのよさに関して語りだしたので、すぐに消した。