On the Great Beat   


例えば以下は、先日カッコつけて書いて、サークルで1年に1度出す「年報」なるものにのせた文章。

個人主義が浸透してからの時代を現代、と規定するならば現代はキャラクタ化の時代だとも言えるだろう。0年代の文化を牽引していたとも思われるオタク文化は、様々な意味を象徴し、それぞれのフェティシズムを満たす、細分化されたパーツの組み合わせが織りなしているキャラクタの総体だし、テレビではタレントがキャラクタとし大雑把に分類されてゆき、報道は一元的な政治家像を作り出す。子供達は学校で、いじめっ子、いじられキャラ、先生大好き、お調子者、将棋、卓球、美人、デブ、秀才、変態、筋肉、地味、などというふうにキャラクタ化されてゆき、先生はそれぞれの顔ぶれをみて、全然そんなこたないのに、うまくまとまってるな、なんていう意味の無い自己満足に浸ったりする。個人を重視するという考えは、結局のところ、とらえどころの無い個人を暴力的にキャラクタ化するというところへ落ち着いている。
キャラクタというのは期待の結実だともとらえられる。つまり、あれはこういうキャラだから、こういった行動をするだろう、こういった事をしなければならない、等の期待。期待にそぐわなかった人間は、空気が読めない、集団行動を乱す、邪魔、ということで排除され、アウトサイダーとみなされ干される。同様に現代において物語とはキャラクタとキャラクタが織りなす状況であり、それは期待と期待との組み合わせによってさらに増大された期待に過ぎない。予定調和的な物語が歓迎され、意外性は排除される。そして、こういう要素とこういう要素が揃っているから、こんなになるんだろうな、もう分かってるぜ、そらみたことか、俺には先を見る目があるだろう、尊敬しろ、という言説を持つ人々、例えば企業や経営をうまく成功させて太った人やスピリチュアルな何かでもってやっぱり太ったり、さもなくば髪が黄色くなってしまったような人が尊敬される。過去の失敗におびえる僕らはしばしば露悪的な予想、最悪を想定した悲劇の予定を立てる。無意識のうちに暗澹たる将来を期待してしまう。同時に、期待された将来に対して抗う事を社会的に禁止されている僕らは、予定された未来を確定したものだと受け入れざるをえず、見透かされた暗い将来に対してできることはといえば絶望する事くらいである。予定調和を変えなければならないにもかかわらず、予定調和の変更をよしとしない過去の固定観念が僕らを邪魔してやまない。ここのところずっと世の中を覆う不安や絶望は、自己が作り出した期待という幻に惑わされて蔓延しているものだと僕は考える。
 思えば僕は生まれてから一度もあのバブルの時にそうだったと言われるような、破天荒でバカみたいに希望に満ちあふれた世界を知らない。けれども僕は希望や幸せの感覚を知っている。部屋でヘッドフォンをかぶって轟音で聴いていた音楽。友達の家でコーヒー飲みながら、絵を描きながらそれをまた聴き直して、音が止まった瞬間、走り去る遠くの電車、きつね色の西日、窓を開けるとカーテンがふわっとなって街の音がする。それからむっとする空気。友達は風で少しずれた映画のフライヤーを画鋲でまたはり直している。そんな友達と別れて帰り道、深夜、寂しくなって入ってみたコンビニの涼しさ、そこでメールが入って今8chで面白い番組でやってるから見てくれってまたそいつから。それで観終わって、また轟音を聴いて、そしていつのまにか年をとっている。得体の知れない多幸感があった。深夜バスを降りるとカッと晴れた京都の夏の朝があって、コーラを飲んで、また二〇六番に乗るとぐんぐん言葉が溢れてきて、誰かに言いたい、という気分になって、正体不明の多幸感があった。こんな感覚を味方につければ、絶望の雰囲気も変えられると、予定調和から軽やかに逸脱できると、僕は信じている。


そして以下はhttp://www.bookjapan.jp/interview/091022/note091022_2.htmlにおける穂村弘のインタビューからの抜粋。

例えばテレビに出ている芸人と視聴者は共犯関係にあって、芸人の非常に細かいリアクションまで観るほうもわかっているし、芸人も「わかられてる」ということを察知しているわけですね。 だから、爆発的な笑いが取れることよりも、その場その場でうまくリアクションをし続けることのできる人が生き残る。しかしそんな状況になって、それでみんな幸福になっているわけでもなければ、孤独感が無くなっているふうでもない。「なんでこんなことをし続けなきゃいけないんだろう?」という思いは絶対にある。しかし昔のようにはもう絶対にできないんです。


同じ事が言いたいのに、どうしてこんなにもすっきりと、そして伝わりやすく言う事ができるのだろうか。ときどき、言葉というものをあきらめたくなる。