優しいわれわれの獰猛な視点


そう、トクマルシューゴを聴いているとセンチメンタルなことを書きそうになる。やばい。そういうのは絵にしとけ。例えばサッカーのゴールシーンを観た時に感じるような、あのカタルシスのようなものはなんなのだろうか。喜びと興奮の雰囲気がむわっとこみ上げてくる。入れられたチームのファンだったり、アンチ入れたチームだったり、入れた選手が嫌いだったり、その他だったりする場合は別だけれど、特段思い入れのない二項対立の場合、ゴールシーンを観るとシュートを打った側に感情移入しがちだ。これは、シュートが決まらなかった場合も同じで、「あー」とがっかりしたりする。いろんな説明ができる。第一にゴールが困難な作業だという事。困難な作業を優しいわれわれは応援する。第二にゴールが能動的作業であるということ。動きがある側に感情移入しやすいのは感覚的に分かるであろうと思う。第三にやさしい我々は無意識下で獰猛だということ。獰猛な精神はついつい攻撃する側のパースペクティブにその視点をセットしがちなのだ。ではなぜ、戦争において我々は攻撃される側に感情移入して、カタルシスを感じるのだろうか。言葉を得、物語を語るのは常に勝者であるということが自明になっているから、そのバランスを取ろうとしているのであろうか。ではあの、スポーツ観戦の時に現れる水面下の獰猛な精神は何処へ消えたのであろうか。スポーツと戦争の違いは、なぜスポーツが健全で戦争が不健全かという事は、スポーツにおける攻撃者と戦争における被攻撃者、この両者の共通点を分析することによって暴かれるであろうと思う。という、センチメンタルな言説。


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