[書評] ドン・デリーロ 『ボディ・アーティスト』

ボディ・アーティスト (ちくま文庫)

ボディ・アーティスト (ちくま文庫)

『ボディ・アーティスト』において主人公宅に出没するタトル先生(関係ないが、映画『未来世紀ブラジル』に管理社会のノイズとして同名の登場人物が出てくる)はその家の内部で聴いたものを正確に記憶し、記憶したものを(波形まで記憶し声まねをする)ランダムにアウトプットする。ここで彼は、自己同一性を持たない生身の機械として描かれている。自己を認識しないタトル先生はその証拠に排泄や食事等、自己を保存する手段について何も関心を示さない。社会的には精神の病だという認定をうけるはずだが、不可解な理由で夫をなくしたばかりの主人公は夫の記憶への窓口としてタトル先生にすがる。それは、全ての記憶に対してニュートラルに開かれた扉、自己同一性からの解放への窓口でもあった。しかし、タトル先生とのコミュニケーションの中で記憶と記憶のつながりを撹乱され、また忘れていた記憶がよみがえる(存在しなかった記憶が出現する事に等しい)うちに主人公はタトル先生とは逆に身体への関心を加速させていく。そして、最後にこう気付く。

彼女は部屋に入り、窓のところへ行った。窓を開けた。窓を勢いよく開けた。自分がなぜそれをしているのかわからなかった。彼女は海の刺激を顔に感じたかったのだ。それから時の流れを顔に感じたかった。自分がなにものかを語るために。
(204頁)


人間は、ある一時点における現象を視覚、聴覚、触覚などの五感を使いながら把握、体験する事ができる。そして、体験を記憶する。しかしながら、変化を把握する事はできない。変化、時間は人間にとって不可逆的な存在であり、時間や変化を把握するということは人間にとって記憶と記憶の関係を結びつけることでしかない。ある一時点の記憶とある一時点の記憶の関係は一人の人間の中で混濁し、前後する。これは、影絵のようなものである。影として映ったものしか目にする事ができず、元の存在がなんであるかということを知る事はない。

ここに、客観的事実はない。映写された影を元にしてどういった像を想起するのかは個人の間で千差万別であるというような言い方もできるが、もとより、もとの実像を観測する術がないので存在しないのと同義である。観測されないことは、時として事実であるが、客観的事実として共有されるべきものは今日、観測可能な現象に限られる。

個人Aはア→イ→ウという流れを記憶と記憶の関係として認識しているとする。しかし、個人Bの中ではウ→ア→イという記憶と記憶の関係がある。この時、どちらが正しいということはない。理由の一つは客観的事実が観測不可能であるからであるが、加えてAとBは同じ関係を共有していると勘違いしているとも考えられる。つまり、認識のズレすら観測することができないのだ。個人は自分が持つ記憶と記憶の関係に何も疑問を差し挟む余地はない。なぜなら、客観的事実として観測不可能であるから、暫定的に確定させなければキリがないからだ。記憶と記憶の関係性を疑い出す個人が分裂症的な傾向を発症するのは必至である。

AからYまでの個人が複数の同じ一時点の事柄に対して同じ記憶と記憶の関係を頭の中に位置づけており、個人Zだけがそれとは違う関係で物事を把握していたとしても、健康な人間にはそのズレを指摘する能力がない。なぜならば、特に留意がない限り、ZがAからYまでと同じ事実関係の認識を持っていることが合意されているからだ。認識のズレが何かの拍子に認識された時、議論、もしくは病名の付与、刑の執行、共同体からの排除等が起こる。

事象と事象の関係を結びつけて理解するのは合理的把握能力である。例えば3秒間のうちに、ある時点で猫が屋根の上にいるのを見、ある時点で猫が屋根から飛び降りるのを見、ある時点で猫が地面を歩いているのを見たとき、人間は合理的把握能力によって3秒の間に猫が屋根から飛び降り、地面を歩いているのだと考える。つまり、ここに時間の概念が生まれる。3秒間のうちに猫が屋根から飛び降りた後で猫が屋根の上におり、次の瞬間に猫が地面を歩いているという順番に解釈することはまれである。なぜなら、経験的な物理法則を考慮した時、こういったことは起こりづらいと考えられるからだ。こうした合理的把握能力の特徴の差、事象と事象の関係を結びつけて把握する能力の癖が個人の個性として遊離してくる。個人が独特の個人たる理由はここにある。合理的把握能力は後天的な経験から形成される。例えばこれをロックは「労働」と呼ぶ。(これは一般に我々が使う「労働」やマルクス主義的な「労働」とはかなり意を異にする。ただし、イギリス系の思想家には、後天的な経験から導きだされる合理的把握能力の個人差はかなり少ない、もしくはランダムなサンプリングではばらつきがあるが、合理的判断が似ているクラスタ同士を分類していくと、変化はグラデーション、漸次的になっていると考えている人が多いようだ)経験によって合理的把握能力が形成され、合理的思考が経験をアレンジしていく、という相互作用が実際のところなのだろう。

変化や時間の不可逆性は個人に個性、自己同一性を与える。例えば、同じ本を読む人は多いが、全く同じ言葉を摂取したとしても、いつ読んだのか、どういった環境で読んだのかといったことで咀嚼の仕方は全く変わってくる。それにに¥は形成された合理的把握能力とそれまでの経験が大きく関係している。環境は常に変化しており、同じ言葉を摂取することはあっても同じ環境、経験を持った状態で同じ言葉を摂取する事はない。時間が可逆的であり、それゆえ全ての経験が並列ならば、経験の有無のみが問題となるはずだ。しかし実際のところ経験は、ちょうど音程のように、前後に起こった事、同時に起こっている事柄の間で、同じ現象であってもある一時点の印象はさまざまな役割を果たす。そうして一つの固有の現実が立ち上がってくる。

我々が時間というものを経験する中で、どれだけの神話をそこに組み込んでいくのか?
(163頁)


立ち上がった一つの現実は身体に固着する。それゆえのボディ・アーティストという設定であり、自分以外のなにものにもなれない事に主人公は芝居を通して気付いてゆく。

ところで、本作品をバベルの図書館と比較する事も可能であろう。途中、タトル先生は未来を予言する科白を吐く。(あとになってそれが予言だったことがわかるのだが。)似たような事、同じ事は日々、世界のどこかで話されている。言語的な全ての組み合わせは、言語的に全ての意味を作り出す。これはちょうどバベルの図書館と同じ状況である。しかし、時間に対して不可逆的な身体が言語的な意味とは別の事実関係、意味を生み出す。そして、身体を通して個から逃れられない事実を身体の牢獄としてではなく、あらゆるものがデータベース化される社会からの最後の救済として描くことで、この物語はボルヘスの提示するニヒリズムを乗り越えているように思われる。

時間の不可逆性と経験というテーマは経済学においても重要なトピックであり、ムーアやケインズの確率論や行動経済学において指摘される効用関数に対するノイズの問題に引き継がれている。僕自身の最近の関心(経験と判断によって生み出されたコンテクスト)に即して言えば本作品は、ロックの所有権に関する興味を深めてくれるものでもあった。 ドン・デリーロアメリカ人だが、アメリカ人の考え方に対するイギリス哲学の影響を改めて感じざるを得ない。一方で本作品は非常に汎用性の高い、個人の関心が如実に投影される作品であろう。現代アート、日本の古典芸能の関係、ペルソナ、電話やレコーダーといった機械が我々の生活にもたらすこと、ライブカメラで遠くの出来事を共有することの意味等さまざまなフックが用意されている。

著者は往々にして「詩的な文章」だとか「透明感のある美しい文体」という文句で宣伝されるが、翻訳を読んだだけでこのような評価を下すのは不遜であるし、原文に触れたとしても、それまでにかなりの量の原書に触れている人間でなければその文章が詩的であるか、とか、透明感があるか、とかそういう判断はできないはずだ。これは翻訳作品全てに当てはまることである。しかし、そのことについてあえて一言付しておくならばこう言えるだろう。本作品は全体を通して前後で様々な部分がリンクし、また途中差し挟まれる複数の立体的な視点もあいまって一種のゆらぎのような不安感を醸す一方、内部で全ての整合性が整っている、という面で非常に精緻である、と。それはまるで閉め切った部屋の中でも複雑に動きながら釣り合いを保つモビールのようだ。