寓話調に言うならこうなるだろう。

休暇に入ってカーニバルがやってくるとみんな五才児になる。透き通る暖かな水の膜に守られて、みんな五才児になる。思い思いの声を出して、本当に喋りたいことを喋り、本当に笑いたいことを笑う。嘲りも含めて。みんな彼らの方を見る。憧れと軽蔑を込めてみる。彼らは所かまわずハミガキ粉をを吐き散らし、大きな乗り物を乗り回す。雨が23度降ると、やがてカーニバルは去る。水の膜は弾け、彼らは我に帰る。弾けた水の一粒一粒のゆくえが町中をこっそり潤すのだ。


寓話調に言うならばそうなるだろう。寓話調に言うならば。

bloodは赤だけど8月は死の季節(セミの)

夏も終わりに近づくとセミが死んで潰れてちぎれて転がっているのをしょっちゅう見る。ハトやカラスやスズメはあまり死体を人目にさらさない。個体数に圧倒的な差があるという意見もあるのだろうが、死のシーズンが限られているセミと違って一年中死んでいるハトやカラスやスズメは、いったいどこに死体を隠しているのだろうか。これは僕の10年来の疑問である。

例えば、人間が8月にしか死ななかったとしたらどうなるだろうか。8月以外に人は絶対死なない。300メートルぐらいの所からひもなしバンジーしても、人間黒ひげ危機一髪をやったとしてもしかり。8月には普通に死ぬ。だとしたら8月以外の月を生きる安心感と、8月の到来への恐怖はどっちが勝るだろうか。死のリスクは12分の1に減ったというのに、8月への恐怖の方が大きくなるんじゃないかと思う。結局。

そういうどうでもいいことを考えてしまうのが8月。

トンネルの中を走っている。車でも自分の足でも何でもいい。とりあえず前に進んでいる。しかし実際はトンネルはドーナツ状の空中浮遊する筒で、数年経つと進んでいる存在は元の場所に戻ってくる。ここで問題になるのは、ドーナツ型のトンネル自体が回転していると考えるのか、進んでいる存在が運動していると考えるのかである。定点を運動する存在に置いたとしたら、トンネルが回転していることになる。オレンジ色のランプが次から次へと後ろへ進んでいく。これは実は、トンネル自体がぐるぐる回って僕らを進ませている気にさせているだけではないのかと、昔は夏なんかに旅行へ行く途中の車の中でよく考えたものである。それで、トンネルを出るたびに安心していた。


では、レッドツェッペリンよりもはるかにわかりやすいというのに、レッドツェッペリンよりもbloodthirsty butchersを聴く人の数が少ないという現象についてはいったいどういうことが言えるのだろうか。bloodthirsty butchersを聴く人と、レッドツェッペリンのレッドを「赤」という意味だと思っている人はどっちが多いのだろうか。僕は中3ぐらいまで赤だと思っていたし、ブッチャーズを聴き始めたのは高2ぐらいだった気がする。bloodは赤だけど。


7月


まだ聴きこんでないけど、Fugaziってバンドかっこいいですね。トーキングヘッズとかストロークスあたりに近くてロック嫌いにも好かれそうなロック。

ナイキ/ニケ(勝利の女神)

朝、辺りはまだ薄暗い。空はどんよりと青白く曇っている。摩天楼の中州と緑の多い人口島を結ぶ吊り橋を黒人が白く息を吐きながらTシャツにランニングパンツ姿で走っている。紺色のニット帽をかぶり、何を聴いているかはわからないが白いイヤホンをして、鼻の頭は心なしか赤い。朝のラッシュなのだろうか、脇の車道の交通量はそこそこ多くヘッドライトが眩しい。時おり、すれ違う車から大きな音量でカーラジオやラップが聴こえる。足は良くあがっていて、跳ね上がるシルバーのランニングシューズが光って見える。襟を正したくなるほど、清々しい光景である。

しかし、黒人はちらっと腕時計を確認すると突然吊り橋の手すりをひょいと飛び越えて、真下の海に足から飛び込んでいった。さしてしぶきをあげずに濃紺の海に吸い込まれてゆく。ここで視点がズームアウトする。濃紺の海が画面一杯に広がる。そして中央にはさらに濃い、ほとんど黒のような紺色で、ナイキのトレードマークが浮かび上がっている。

culture politics tax

ビールよりも圧倒的に梅酒やチューハイが支持される昨今、今後20年ほどでビール文化というのは壊滅的になるのではないかという予感がしています。

そもそも嗜好品というのは最初のうちは苦くてまずいもので、たとえばコーヒーだとかビールだとかいうのは、どろ甘のキャンディばかりしゃぶっていた幼い日の僕らの舌には初めからきちんと乗ってくるものではないと思います。通常の生活で楽しめる味覚は甘いかしょっぱいか責めて「酸っぱい」までで、「苦い」という味覚を楽しめるようになるには相当に変態の領域まで入り込まなければいけないのです。

かつては糖分というものは気軽に手に入るものではなかったため、日常の糖分を楽しむために、逆コースである「苦み」をたしなんでいたという側面もあるのかもしれません。

逆に我々は「苦み」を「大人の味」と定義することによって、「苦み」をブランドとして確立し、甘みから人々を遠ざけようとさえしてきました。たとえば鍋を囲む日曜日の夕方、ホカホカの湯気でメガネを曇らせながらおとうさんが「春菊嫌いだって?、おとなになったら食べれるようになるよ、だとか、「コーヒー飲んでみる? ん、苦いか? ま、大人になったら好きになるよ」だとか。

しかし、グローバリゼーションと搾取的プランテーション経営、製糖テクノロジーの発達等により、糖分は決して貴重なものではなくなった。公園の隅、街角のそこかしこで子供から大人までがどろ甘のキャンデーをsucksuckボリボリすることは日常的な光景になりました。甘みベクトルは苦みというヒールを必要とせずにそちらの方向のみでぐいぐいと複雑に育っていくこととなっています。

そこへきて特に都市部のハイカルチャーの退行、幼児化という現象が(この現象を僕自身は肯定的にとらえていますが)20世紀以降人類全体を覆っています。快楽へ快楽へと進む姿勢はテクノロジーを進化させるとともに、自堕落からくるたくさんの病人を生み出しました。「苦み」には誰も見向きもしなくなったのです。

最後に追い打ちをかけるのはご存知ビール税です。相対的に高めにかかるビールへの税金はビールの消費量を減らします。相対的に高めのビール税時代以前にビールの味を知っていた人間は安い疑似ビールをつくることで、ビールへの欲求を満たそうとします。しかし、高めのビール税時代に生きる若者はビールと偽ビールが物心ついたときから並行して存在しているため、そもそも本物ビールの味をよく知らずに偽ビールを飲んでしまい、ビールってまずいなとなる。加えて本物ビールが高いため、本物の方も1、2回試してあきらめられてしまい、コーヒーみたいに何度も飲まないとハマらない性質をもつビールのおいしさは伝わりにくい。こうしてビール離れは進んでいくのです。

政策が文化をつぶすというのはこういうことで、マリファナ文化、たばこ文化、ビール文化等がこうして潰れ、潰れかけています。ネガティブプロパガンダと税、この手法を使えば我々は様々な文化をつぶすことができるわけですが、たとえばたばこやマリファナよりも酒が脳に与える害はだいぶ大きいという報告や毎年の肺がん患者数と交通事故者数を比べてみたりすれば、そうした手法のホコサキは非常に恣意的であることが連想されるわけです。

日本ではやはり今、ビール文化、ビール文化に下支えされてきた野球文化(ビール片手に酔いにまかせてペナントレースの動向を語るサラリーマンの姿がカメラマンをひきつける様はビクトリア湖でアクビするカバのそれに比肩しうるでしょう)等のオヤジ文化が消滅しようとしています。消滅という言葉に誤謬があれば、マジョリティの脈流から脱落するとでも表現できましょうか。僕は特段そのような文化に思い入れはないため、文化の消滅を憂いているわけでもなんでもありません。

しかし、一つの偶然がフラクタルな社会の中で複雑に連関しあい、意外な結果をうむということ、そしてそれがさも必然であると思われていることが非常におもしろいなと思いながら僕は今偽ビール「金麦」を飲んでいます。


こんな曲聴きながらね。
(エグザイルよりも嵐を積極的に応援することをここに宣言します)

ハウスに関する知識

ハウス!! 家に帰れだって? 違うよ。みんなの大好きなハウスミュージック。僕らのハウスミュージック。家を出てみんなで聴くハウスミュージック。4つ打ち(「ウチ」だからハウスなんじゃないよ)を基軸グリッドとした繰り返されるビート。ビートは時に複雑になり、時に淡白な4つ打ちに回帰していく。反復と開放。うわものはなるべく単純でキャッチーでドープな音を繰り返し。ビートはベースラインを使ってメロディを抱きしめる。抱擁の中に僕らを閉じ込める。音楽の中に僕らは閉じこもる。「ウチ」としての音楽。

ハウスとは端的にいえばシカゴで隆盛を誇った「ウェアハウス」というクラブの名前の略であり、抑圧されたコミュニティが生み出した音楽の快楽主義である。差別の渦中にあった、20世紀のゲイカルチャーに下支えされて「ディスコ」は1970年代から急激に発展していった。音楽におけるドクターとしてのDJの誕生、レコードとレコードを重層的につなぎ合わせる「ミックス」という技術、享楽的なダンスとドラッグ。いかにして我々は気持ち良くなれるか、主眼はいつもそこに置かれていた。抑圧された状況の下でゲイ達は快楽を追求するために闘いを避け、地下に逃げん込んだ。同類の集まる場として爛熟していくディスコという形態は、やがてゲイの存在とは裏腹に市民に受けいれられてゆく。抑圧的な都会の生活のフラストレーションを解消する場としてのクラブの誕生である。

冒頭で述べたとおり「ハウス」という言語表現とハウスという音楽の形態はいささかねじれた関係にあった。しかし、時代は流れた。たとえば2009年に入ると、USTとtwitterというweb上のテクニックのコンボでDOMMUNE(DOMMUNE自体は2010年からだが)などに代表されるように、家を出なくても簡単にDJ達のプレイが楽しめるようになっている。我々は二重の意味でハウスに閉じこもるようになったのである。それだけではない。状況はかつてよりもより深くなっている。USTで視覚的聴覚的的情報(経験)を共有しながら、ニューロンレベルでは言語を介して現在進行形で経験を共有している不特定多数と感想や感情を共有する。チャットのように用いられるtwitterは身体というフェイズを飛び越した言葉による意識と意識の結び付きを可能にする。一晩に数千人が同じ音を聴き、感情を共有するなどということが今までおこりえただろうか? なぜ、ディスコティークなDJ専門のラジオ局やテレビ局、ましてや番組が生まれなかったのかということを考えてほしい。電波を寡占的に使用するラジオ局やテレビ局には公共性が求められる上に制作のために莫大な費用がかかる。そのため、アンダーグラウンドな音楽、狭くて深い世界には不向きだったのだ。web上でブロードキャストすることがたやすくなったという現実が一番大きく我々の音楽生活に影響を与えている。もはやホットな場所に行かずして世界の盛り上がりの動向を手に入れることができるようになったのである。(それはリアルタイムDJの話に限ったことではなく、旧来のメディアの弱点であった単一的な時間軸という制限を克服したYou Tubeや、ロングテイルで売り上げを伸ばすアマゾン、世界の路上を一つに集約してしまったようなmy space等にも言えることである。)

だからどうだって結論はない。おそらく現実感が手軽に楽しめるようになったから現実(実際に音が鳴っている箱に行くこと)がますます重要性を帯びていくんだろうけど、だからどうだとかそういうことじゃなくて、単純に自分の部屋で一人で目をつぶりながら、時には目を開けながら、最先端の現場でかかってる音楽が聴けてうれしいってそれだけ。しいて言えば、ハウスという音楽は差別から発生した、カウンターしないカウンターカルチャー、非政治的なカウンタカルチャーだってことかな。結論は。これは本当は僕の言葉ではないんだけれど。


二個目の動画のバックダンサーズの踊りが変すぎるね。

屈曲してるね。

そうだこの日記は携帯からもポストできるんだった。

菜の花の美しい花、あれは花が咲いていなくても「菜の花」であり、でも「菜の花が咲いた」であり、「菜の花の花」でもなければ、「菜」でもない宙ぶらりんな存在(構造から脱していると人は言う)なのだが、汚らしくて変な銅像の横にたくさんさいていたので近くを通るフリをしてサッとかいでみたらヨダレみたいな匂いがしてくさかったし。
しがない駅なのに東京だから四条河原町ぐらい混んでる。シガニーウィーバー チャカカーン。プーサンみたいに上半身だけ服を着せられた黒い犬(ブルドッグ)が街をあるかされていて、本当は全裸でいたのに誰かが服を着させ始めたことによって「全裸」という概念が発生してしまった、さらにおかしなことに、上半身だけ着ているヤツは下半身を丸出しにしていることに意味が付いてしまっている、つまりヤツは服を着ることを知っているのに敢えて丸出しにしているという目で見られるべきなのだ論理的には。しかし、やつらの「カラダ」は意識の存在する身体ではなく、もの、印、シンボルだと思われているから、休日に犬を引くことは豊かで愛に溢れた生活のシンボルだから、下半身出していても大丈夫。

大丈夫な世界。

バスキアのシンボル王冠が、スクランブルの脇の支柱にしっかりと刻み込まれている。ギャラリーだと思っていたとけろが、美容院だったりする。ここは裸じゃだめだけど、裸でも大丈夫な世界。

トップランナーの構造

ここ最近トップランナーという番組があまり好きではなかった。というよりも箭内道彦という人物があまり好きではなかった。何たいしてもわかったふりで、「わかるよ、いいねそれ、わかるわかる」といって人当たりの良さで押し切ってしまう要領よしの人気者タイプ。一通りの事は人並みにできて、特別得意なものも不得意なものもこれと言ってない。きっと収録に当たって相手の事をたいして調べもしてないので、当たり障りのない凡庸なコメントしかせずカンペ通りのつまらない質問しかできない。そのくせミーハーで自信家。(勉強好きなミーハーは物知りになれる)アシスタントの女性はこぞって箭内に惚れてしまい、箭内にべたべたの発言ばかり。どうしようもない番組だと思っていた。

しかしである。先日、トクマルシューゴ見たさにトップランナーを見たのだが、実は箭内という男はゲストをはかるリトマス試験紙としての役割を暗に制作サイドから託されているのではないかと思いついた。ゲストが「やなヤツ箭内」に対してどういう態度をとるかという事でゲストの物事に対するスタンスがわかってしまうのだ。箭内に寄り添ってしまう人は、口先にだまされがちな人、箭内に対して批判的な口上を述べる人、反論する人は確固たる自信を持っている人、明らかに箭内の浅さに感づきながらも彼から一歩引くだけにとどめておくひとは人は謙虚な人、というように。人間観察を楽しませるために劇薬箭内をNHKは投入しているのだろうと勝手に考えた。もしホントに狙ってそうしているなら、ますますNHKが好きになっちゃうな。